完成したとき味わえるものとは 【森博嗣】連載「静かに生きて考える」第15回
森博嗣「静かに生きて考える」連載第15回
新型コロナのパンデミック、グローバリズムの崩壊、ロシアのウクライナ侵攻、安倍元総理の暗殺・・・何が起きても不思議ではない時代。だからこそ自分の足元を見つめなおしてみよう。よく観察してみよう。静かに考えてみよう。森先生の日常は、私たちをはっとさせる思考の世界へと導いてくれます。連載第15回。
第15回 完成したとき味わえるものとは
【作ったものが「完成」するのはいつ?】
作家になって、自分の本が世間に出回るようになった。普通の人にはあまりない体験かもしれない。もっとも、最近の電子社会では、個人が発する情報が大勢の目に触れるわけだから、もう特別な体験とはいえなくなっているだろう。
新刊本が完成すると、編集者がわざわざ見本を持って訪ねてきた。担当編集者だけではなく、編集長や、ときには部長という人が会いにきて会食になったりする。この界隈の習慣なのだな、と思ってつき合っていたのだが、いつしか「面倒だから郵送して」とお願いするようになった。何冊も本を出したから新鮮味がない、という理由からではない。
僕にとって、作品が完成するのは、いうまでもなく書き上げた時点だ。このとき、ちょっとした満足感がたしかにある。ただ、小説というのは1冊の本になる長編であっても、せいぜい20〜30時間で仕上がる仕事量なので、大した感慨はない。シリーズを書き上げたときには、もう少し「やっと終わった」という気持ちになれるけれど、それでも、コーヒーを淹れて溜息をつく程度のことだ。
これに比べると、工作は長時間を要する。機関車や飛行機を1機作ると最低でも100時間はかかる。プラモデルだって、それくらいかかる。完全自作(スクラッチビルド)の機関車になると、1000時間は短い方で、その何倍も時間をかけ、数年を要するプロジェクトになるだろう。完成したときには、それ相応の達成感に浸ることができ、しばらくなにも作りたくない、という気持ちと、さて次はなにに挑戦しようか、という気持ちが入り混じる。完成とはそういうものだし、ものを作る体験は、人生を構築することのサブセットだと考えている。
ただ、自分が作ったものを人に見せ、反応を得ないと満足が味わえないという人もいる。たとえば、コンテストに作品を出展したりするような場合、他者からの評価の多少で嬉しさや悔しさを味わう。そういった外部評価を得ることが「完成」だと考える人もいる。
【考え抜けば、作らなくても完成?】
小説でいえば、本を出して、その本が売れることが確認されて初めて、本当の「完成」だという考え方もある。僕には、そういう他者評価はどうでも良い。ビジネスとしては重要だけれど、自分の満足とは無縁だと考えている。だから、作品が本になっても、またそれがベストセラになっても、「完成」を感じることはない。
工作品については、そもそもコンテストや展示会に出展しようとも思わない。人のために作っている、という気持ちになりたくないからだ。小説はビジネスだからしかたがないが、工作は自分の満足のためにしている。この点で、妥協をするつもりはない。
機関車の工作で世界的に有名な平岡幸三氏は、何年もかけて設計図を描かれる。初期には、その設計図に従って工作もされていた。しかし、あるときから、図面を描くだけになったという。実際に作る必要がないくらい図面の精度が高くなったからだ。世界中のマニアが、彼の図面のとおりに機関車を製作している。図面は手書きのものだが、どんなCGよりもはるかに美しい(3D図面も多い)。
平岡氏の工作は、図面を描き上げたところで完成する。実際に材料を加工しなくても、ものを作ることができる。明らかに、これはバーチャルの精神といえる。
頭で考えて、こうして、こうすれば実現できる、と考え抜いたとき、すでに完成しているのだ。普通は、その考えが隅々まで及ばないから、実際に作ってみないとわからないことが多々ある。しかし、熟練してくるほど、あるいは、緻密に思考するほど、こうした勘違いは排除され、考えただけで完成の域に達することができる。人間の頭脳とは、それくらいの能力を持っているのだ。
- 1
- 2