ジェネラルからスペシャルへのシフト【森博嗣】連載「静かに生きて考える」第10回
森博嗣「静かに生きて考える」連載第10回
新型コロナのパンデミック、グローバリズムの弊害、ロシアのウクライナ侵攻、安倍元総理の暗殺・・・何が起きても不思議ではないと思える時代。だからこそ自分の足元を見つめ、よく観察し、静かに考えること。森先生の日常は、私たちをはっとさせる思考の世界へと導いてくれる。連載第10回。
第10回 ジェネラルからスペシャルへのシフト
【ジェネラルなものが衰退する?】
1週間ほどは、年末頃に発行される科学関係の本の仕事をしていた。執筆でも翻訳でもなく、監修を依頼された。そういえば、小説の仕事は、もう半年以上(ゲラ校正以外では)していない。
「回っているコマは何故倒れないのか?」といった疑問を、普通人は持たないし、理由を正しく答えられる人もいない。一方、悲惨な事件があるたびに、「どうしてあんな酷いいことをしたのか?」と執拗に知りたがる。理由を知ったところで、真実とは限らない。たとえ真実であったとしても、将来的に問題が解決できるわけでもない。
科学的なことは専門家に任せておけば良い、という姿勢を、非常に多くの人が自慢げに持っている。まるで王様か社長のような大らかさだ。実は僕も、「生きることなど躰に任せておけば良い」と思っているから、その気持ちは理解できる。ただ、人任せにしすぎることのデメリットも、多少は認識しておいた方が「お得」だと思う。
日本の職場には、総合職と専門職という区別があるらしい。多くの場合、総合は専門よりも上だと認識されている。いささか変な話だと思う。僕の知っている範囲では、日本においてこの傾向(偏見といっても良い)が強い。総合的なものは、専門的なものより偉い、あるいは有利? はたして、そうだろうか?
たとえば、日本の雑誌には総合誌が多い。ある分野に特化したものでさえ、その分野を全般的に網羅しようとする。その結果、どの雑誌も特色がなくなる。テレビ局もそうだ。ニュースやドラマを専門とする局はない。ショッピングセンタには、いろいろな店が集まっているけれど、どこのショッピングセンタも同じような雰囲気になる。だから、雑誌もテレビ局もショッピングセンタも、これから衰退するだろうな、と僕は感じる(20年まえからそう書いてきた)。デパートや大型書店などが、これに類する。
ついこのまえまで、「〜しかない」という表現は否定的な意味だったけれど、今では、賞賛の言葉として広く使われている。スペシャルなことが価値を持つ時代になった象徴ともいえるかもしれない。
【みんなと同じが良いという価値観】
「どこも同じじゃないか」と腹を立てる人は、まだ少数派だろうか。どこの観光地も似たりよったりだとか、最近の自動車って、みんな目が吊り上がって同じ顔だとか、ちょっとした事件があると、どのチャンネルも同じ放送になるとか……。そういうときに、「一体感があってよろしい」と思える人が多いのかな? 僕はそうは思わない。1つくらい違ったものがあっても良いのに、と憤る。何故なら、僕はみんなが見ているものを見たくないし、みんなが好きなものを好きになれないし、みんなと同じことをしたくないからだ。
天邪鬼だとか、捻くれている、と子供のときからいわれたけれど、べつにわざと違うことをしているわけではない。ただ、大勢に合わせようという気がないだけ。みんなに合わせても、特に面白くない。それよりも自分がやりたいことをしたい。ただそれだけの素直な気持ちで、これまで生きてきた。
みんなが同じである必要はない、という価値観を持っている。自分と同種の人が現れても、「あ、そうですか」というだけで、特別嬉しいとは感じない。だから、自分の主張を人にわかってほしいとも考えない。放っておいてね、というだけなのだ。それなのに、これがなかなかわかってもらえない。「寂しいですね」などといわれてしまう。僕自身は特に寂しくないので、「へえ、寂しいですか? 寂しいと、なにか悪いことでもあるのですか?」と応えるしかない。
研究というのは、職業になった場合は、とにかく誰もやっていないことをするしかない。また、作家のようなクリエータも、仕事でする場合は、できるだけ人と似ていないものが求められる。だから、たまたま僕のような人間には相性の良い分野だった。
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