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奉行も思わず「あっぱれであるぞ」 突然の三行半に隠された夫の気遣い

江戸の性 第108回

イラスト/フォトライブラリー

『江戸の性事情』(ベスト新書)が好評を博す、永井義男氏による寄稿。

 江戸時代、人参といえば朝鮮人参のことで、万病に効く特効薬とされたが、非常に高価だった。

『頃日全書』につぎのような話がある。

 芝田町の宇八という町人の娘のお音は三年前、同じく芝田町に住む吉右衛門という町人のもとに嫁いだ。ところがこのほど、夫の吉右衛門から三行半(みくだりはん)をもらい、お音が実家に戻ってきた。

 宇八は北町奉行所に訴え出た。

「わたくしどもの娘が離縁されて戻ってまいりました。離縁されたのはやむを得ないとしても、元の亭主の吉右衛門に、娘が持参した嫁入り道具を返すよう、仲人を通じて何度も申し入れました。ところが、吉右衛門は返そうとはしません。はなはだ理不尽でございます。どうか、お裁きください」

 そこで、奉行の依田和泉守が関係者一同を呼出し、白洲に座らせておいて尋問した。まず、元の亭主の吉右衛門に言った。

「そのほう、女房を離縁しながら、嫁入り道具を返却しないのは不当である。早々に引き渡せ」

「恐れながら申し上げます。お音は嫁いできてすぐに大病をわずらい、命も危ぶまれるほどでした。嫁入り道具はすべて人参代となりました。お音は人参のおかげで九死に一生を得たのでございます。いまさら嫁入り道具を返せとは、とうてい受け入れがたい要求でございます」

 この申し分を聞いて奉行の依田も納得し、宇八とお音に申し渡した。

「大病の人参代に消えたとあればやむを得まい。いまさら嫁入り道具を返せと言うのは理不尽じゃ」

 ところが、宇八が言った。

「娘は大病などしておりませぬ。吉右衛門の言い分はまったくの嘘でございます」

 お音も言った。

「あたしは嫁いで以来、病気になったことは一度もございません」

 また、関係者として呼び出されていた近所の者も、お音は大病などしていないと口をそろえて証言した。ここにいたり、奉行の依田が目を怒らせて吉右衛門を叱りつけた。

「この偽り者め」

 ところが、吉右衛門はふところから紙の束を取り出し、

「いえ、けっして嘘ではございません。ここに証拠がございます。人参代の領収書でございます。ごらんください」

 と、役人に渡した。

 

 役人を通じて紙の束を受け取った依田はしばらくながめていたが、大きくうなずき、言った。

「うむ、これは間違いなく人参の領収証じゃ。女房の命替わりとはもっとものこと。吉右衛門とやら、事を穏便にすまそうというそのほうの取りはからい、あっぱれであるぞ」

 そして、依田は訴えてきた宇八にその紙の束を渡し、「娘の命替わりであるぞ。これで得心して、訴えを取り下げよ」と命じた。

 紙の束は、お音が間男からもらった艶書だったのだ。

 吉右衛門は女房のお音が密通しているのを知ったが、事をおおやけにせず、黙って三行半を渡して離縁した。密通による離縁であり、嫁入り道具を返す必要はない。

 ところが、いきさつを知らない父親の宇八が奉行所に訴え出てしまった。このままでは、お音の密通がおおやけになってしまう。そこで吉右衛門は人参代などという言い訳をしたのである。

 当時、密通が発覚しても、なるべく穏便に解決していたことがわかる。また、奉行の依田もそんな人情の機微を知り、吉右衛門のはからいを称賛したのである。名奉行といえようか。

 なお、依田和泉守は宝暦三年(1753)から明和六年(1769)まで北町奉行の任にあった。上記の事件は、その間のことであろう。

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永井 義男

ながい よしお

小説家、江戸文化評論家。1997年『算学奇人伝』で開高健賞受賞。時代小説のほか、江戸文化に関する評論も数多い。著書に『江戸の糞尿学』(作品社)、図説吉原事典(朝日新聞出版)、江戸の性語辞典(朝日新聞出版)など。


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