■節分は年に4回ある

 

 松飾りがとれるとスーパーのレジ付近に鬼打ち豆が並ぶようになり、節分が近いことを実感する。
 実は、節分は2月だけではなく、5月・8月・11月にもある。具体的にいうと、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことで、翌日から春(夏・秋・冬)になるので、「季節を分ける日」という意味で「節分」と呼ばれるのである。
 では、なぜ節分というと立春の前日のことを指すようになったかというと、ほかの3回にはこれといった行事が行われなかったからだ。いっぽう、立春の前日の節分には、魔を払う儀礼が行われてきた。
 だが、この魔を払う儀礼は、もともとは大晦日に行うものであった。
 

|年取り・年超えとも呼ばれる節分

 大晦日の行事が節分の行事になった謎を解く鍵は暦にある。現在使われている太陽暦(太陽の運行を基にした暦)では正月と節分の間は1月強ほど離れているが、江戸時代まで使われていた太陰太陽暦(太陽の運行をもとに補正した太陰暦=月の運行を基にした暦)では、正月は節分の前後にくる。このため大晦日と節分の儀礼が混同されるようになった。
 また、春の節分を正月と考える習俗もあり(節分を迎えることを「年取り」「年越え」という地方があるのは、その名残と考えられる)、こうしたことから大晦日行事が節分に行われるようになったらしい。
 その正確な時期はわからないが、室町時代頃といわれている。
 

■もともとは鬼が魔を払った!?

節分の鬼はじつは悪者ではなかった!?

 鬼に扮した先生に園児たちが豆をぶつけて追い払う――節分の日のニュースで決まって流れるトピックスであるが、この儀礼、本来は豆を投げるものではなかった。しかも、鬼は悪者ではなく〝魔を払うもの〟であった。
 江戸後期、摂津三田藩主だった九鬼隆国は、江戸城内で平戸藩主の松浦静山に九鬼家の節分儀礼のことを聞かれ、こう答えている。「節分の夜、当主は恵方に向かって座り、年男がほかと同じように豆をまきます。ただし、唱え言は『鬼は内、福は内、富は内』と言います。次の間では『鬼は内、福は内、鬼は内』といたします」
 この会話を松浦静山が『甲子夜話』にわざわざ記録していることから、当時も「鬼は内」と言うことが珍しかったことがわかるが、この唱え方はもともとは鬼が魔を払う主役であった痕跡なのである。

|4つ目をした正義の味方

 この魔を払う儀礼のもとになった大晦日の儀礼を追儺(ついな)という。
 陰陽道などとともに中国から伝わったもので、日本で初めて行われたのは慶雲3年(706)だとされる。間もなく宮中儀礼に取り入れられ、平安初期には次のように行われていたという。
 群臣が立ち並ぶ中庭に、4つ目の仮面をつけて熊の皮をかぶり鉾と盾を持った方相氏(ほうそうし)が20人の配下を引き連れて登場する。陰陽師が祭文を唱え終わると、方相氏は大声を発して鉾で盾を3度叩き、群臣が桃弓で葦矢を放って悪鬼や病魔を払う。

亀戸天神社で行われていた追儺。こちら向きの鬼形2人が方相氏。

 目が4つとは正義の味方らしからぬ異形であるが、その恐ろしさで悪鬼や魔障を打ち破るのだろう。
 ここで注意すべきは、払われる悪しきものは目に見えていない、ということだ。見えているのは、異形の方相氏が活躍する姿だけだ。
 そのためか、やがて方相氏が魔物ととらえられるようになり、平安後期には群臣が方相氏めがけて矢を射るようになった。
 この悪役化した方相氏が節分の鬼の起源なのである。
 寺院の節分儀礼の中には「魔を払う者」の記憶が残っているところもあり、神戸市の近江寺では鬼を毘沙門天の使いとしている。
 

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