サハリンの夜【新保信長】『食堂生まれ、外食育ち』32品目
【隔週連載】新保信長「食堂生まれ、外食育ち」32品目
「食堂生まれ、外食育ち」の編集者・新保信長さんが、外食にまつわるアレコレを綴っていく好評の連載エッセイ。ただし、いわゆるグルメエッセイとは違って「味には基本的に言及しない」というのがミソ。外食ならではの出来事や人間模様について、実家の食堂の思い出も含めて語られるささやかなドラマの数々。いつかあの時の〝外食〟の時空間へーー。それでは【32品目】「サハリンの夜」をご賞味あれ!

【32品目】サハリンの夜
自慢じゃないが、英語がしゃべれない。読むのはある程度どうにかなるものの、会話となると全然ダメだ。まず相手が何言ってるか聞き取れないし、聞き取れたところでどう返事をしていいかわからない。YES/NOで済む話や買い物ぐらいならまだしも、ちょっと何かを説明しなきゃいけないような場面では、もうお手上げ。自分のコンプレックスをネタにして『字が汚い!』『声が通らない!』という本を書いてきた私だが、そのラインナップに『英語がしゃべれない!』というのも追加したいぐらいである。
そんなわけで、海外にはなるべく行きたくない。旅行なら国内で十分だ。しかし、仕事となると行かざるを得ないこともある。初めての海外渡航は、【2品目】でちらっと書いたアメリカ取材。そして2度目が1998年、漫画家の西原理恵子さんと夫(当時)でカメラマンの故・鴨志田穣さんと一緒に行ったサハリン取材だった。本当は北方領土(四島)に行きたかったのだが、外務省に問い合わせたら記者クラブに入っていないとダメとかいろいろ渡航のハードルが高く、似たようなところということでサハリンにしたのである。
羽田から函館に飛んで、そこからアエロフロートでサハリンの州都ユジノサハリンスクへ。アエロフロートの小さな機体は気密が甘いのか、めちゃくちゃ耳が痛くなったうえ、木枠の座席の背もたれが壊れていて離陸時に後ろにバタッと倒れそうになった。後席には熊みたいなロシア人のおっさんがいたため、倒れないよう必死で腹筋で耐えたのも今となってはいい思い出だ。
到着は夕方で、空港には通訳兼ガイドの女性・文さんが迎えに来てくれていた。ご承知のとおり、サハリンの南半分は太平洋戦争時「南樺太」として日本の統治下にあった。文さんは、その時代に同じく日本統治下にあった韓国から労働力として徴用された韓国人の二世である。なので、日本語とロシア語(と、たぶん韓国語)が話せるのだ。韓国語の読みでは「ムン」なのだろうが、ご本人が日本式(?)に「ブンです」と自己紹介していたので、我々も「ブンさん」と呼んでいた。
その日はタクシーでホテルに向かい、翌日の集合時間を決めて、ひとまず解散。ところが、そこで問題が発生した。旅行代理店の人にサハリンではドルが通用すると聞いていたからドルを用意していたのに、文さんは「ダメですヨ。ドル受け取ると捕まるのでみんな受け取らないですヨ」と言うのである。両替しようにも銀行や両替所はもう閉まっている。事実上の一文無しであり、このままではメシも食えない。しょうがないですねーという感じで、文さんが手持ちのお金から「これぐらいあればごはん食べられるでしょ」と何ルーブルか貸してくれた。