残業メシ格差【新保信長】『食堂生まれ、外食育ち』38品目
【隔週連載】新保信長「食堂生まれ、外食育ち」38品目
そんな会社に3年ほど勤めていたが、もろにバブルの時代だったにもかかわらず、給料は激安だった。毎月150~200時間は残業していたのに残業代はなし。その代わり「残業食事代」というのがあって、残業が3時間を超えた日数分、手当が支給された。
その額、一日500円。残業3時間なんて毎日余裕で超えるので、500円×25日で月に1万2500円。労働基準法的にどうなのか……と今となっては思うけれど、当時はもらえるだけでありがたかった。
しかしながら、500円で晩メシは食えない。コンビニのおにぎりとかカップ麺ならともかく、そのへんのお店に入れば普通に600円、どうかすると1000円以上かかってしまう。それでもコンビニより外食のほうが気分転換にもなる。よく行ったのは会社の真向かいにあった中華屋と徒歩3分くらいのリンガーハット。深夜まで開いているのがありがたかったし、そこそこリーズナブルなお値段で食べられる。リンガーハットの先にあった定食屋にもちょいちょい行った。
月刊誌をやっていた頃は毎月入稿~校了時期の3日は必ず徹夜。当時の会社は歌舞伎町の外れのビルに入っていたのだが、同じビルに右翼団体の事務所も入っていて、深夜に食事や買い出しから帰ってきてエレベーターで同団体の構成員と思しきコワモテのおじさんと一緒になることもあった。ちょっとビクビクしていたら、先方も我が社が不夜城なのを知っていたらしく、「にいちゃんらも毎晩大変よな。無理すんなよ」と労ってくれたので、人を見かけで判断してはいけない。
そんなある日、会社から重大発表があった。なんと、残業食事代が500円から700円にアップされるというのである。これにはマジで小躍りした。700円でも十分とは言えないが、アップ率にすれば4割だ。700円×25日=1万7500円。月に5000円の収入増は、当時の私にはとても大きかった。
その後、担当していた月刊誌が休刊になったのを機に会社を辞めてフリーになる。数字の上ではすでにバブルは崩壊していたが、まだまだ景気のよかった時代。翌年の年収は会社員時代の約2倍、その次の年には3倍以上になった。そして、ライター仕事をしていた「週刊SPA!」に業務委託契約の編集者として籍を置くことになる。月刊誌と週刊誌では編集部の規模や体制も違うし、会社全体の規模も違ったので、機材や備品の充実度も違う。B3サイズのレイアウト用紙をそのままコピーできるマシンがあったのには驚いた(前の会社ではB4で片面ずつコピーしたのを貼り合わせていた)。