かわいそうな寿司屋とその弟子【新保信長】『食堂生まれ、外食育ち』37品目
【隔週連載】新保信長「食堂生まれ、外食育ち」37品目
「食堂生まれ、外食育ち」の編集者・新保信長さんが、外食にまつわるアレコレを綴っていく好評の連載エッセイ。ただし、いわゆるグルメエッセイとは違って「味には基本的に言及しない」というのがミソ。外食ならではの出来事や人間模様について、実家の食堂の思い出も含めて語られるささやかなドラマの数々。いつかあの時の〝外食〟の時空間へーー。それでは【37品目】「かわいそうな寿司屋とその弟子」をご賞味あれ!

【37品目】かわいそうな寿司屋とその弟子
あれはもう20年ほど前のこと。当時よく飲み歩いていた界隈で、いい感じの寿司屋を見つけた。まだオープンして日が浅い感じの染みひとつない白木の引き戸に趣味のいい藍染のれん。「鮨」の文字と店名が書かれた行燈があるだけで、品書きなどは出ていない。高級店っぽくはあるが、立地的に考えてべらぼうに高くもないのでは……と、勇気を出してのれんをくぐった。
店内には10席ほどのL字カウンター。こちらも白木で美しい。平日の早めの時間帯でもあり、先客は二人連れが1組だけ。カウンターの向こうの人の好さそうな大将は、予約なしで飛び込みで入ってきた一人客の私を「いらっしゃいませ」と笑顔で迎え入れてくれた。
席に着いて、まずビール。付き出しも出てきたと思うが、何だったかは記憶にない。こういう雰囲気の店には珍しく、その日のネタを書き出したメニューがある。しかも、一人客でも一貫ずつ出してくれるというからありがたい。
刺身を少しつまんでからにぎりへ。コチ、ヒラメ、カワハギ、赤貝、コハダ、アジ、金目鯛、アワビ、中トロ、アナゴ……。実際に何を食べたかは覚えてないので適当に好きなネタを並べてみたが、どれもしっかりうまかった。ネタはもちろんシャリの塩梅もちょうどよく、最初の2~3品食べた時点で「いい店見つけた!」と心の中で小躍りした。
しかし、世の中そう甘くない。少し飲み食いして落ち着いたところで、ふと先客の会話が耳に飛び込んでくる。
「今、○○ちゃん押さえられるの、俺しかいないから」
芸能界に疎い私でも知ってる飛ぶ鳥落とす勢いの若手女性ミュージシャンの名前を挙げて、ドヤ顔決めているスーツ姿のおっさん。隣では仕事関係と思しき20代後半ぐらいの女子が愛想笑いを浮かべている。
「最初は××でいこうって話だったんだけど、いや、ちょっと待てと。今だったら、○○ちゃんしかいないでしょ、と。スケジュール考えたら普通だったら難しいんだけど、そこはほら、俺の人脈っていうか、秘密のルートがあるから(笑)」
○○ちゃんを押さえられたのがよっぽどうれしいのか、語る語る。どうやら何かのイベントだか広告だかに○○ちゃんを起用して大成功、みたいな話らしい。それは慶賀の至りだが、さっきからあなたの前に出された寿司が乾き始めてるんですけど……。