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民主主義に「根回し」は不要か

人間は、自分が思っているほど理性的ではないし、公共的意識も高くない

 


女性蔑視発言で東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長を辞任に追い込まれた森喜朗氏。密室政治や根回しといった、旧来の自民党政治の象徴と見なされた。それは民主主義の公開性の原則と相容れないものなのか。民主主義的決定には事前の「根回し」は一切不要なのか。各紙新聞書評で高評の『人はなぜ「自由」から逃走するのか:エーリヒ・フロムとともに考える』の著者である哲学者・仲正昌樹氏に、この点について政治思想史的に掘り下げ、非常に分かりやすく、示唆に富んだ最新論考を寄稿していただいた。


 

森喜朗元会長と橋本聖子会長

 

■民主主義に「根回し」は不要か

 

 森元首相が、女性蔑視発言で東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長を辞任に追い込まれた問題では、後任の会長選びが密室で進んだこともマスコミは批判的に報じた。森氏は首相在任当時からたびたび失言騒動を引き起こしたにもかかわらず、一般国民の眼に触れない裏での交渉が巧みとされ、そのため権力の中枢に近い所に居座り続け、たびたび政局に影響を与え続けているとされている――私の務める金沢大学でも、比較的最近まで、何か改革をするたびに森氏の意向を気にする風潮があった。

 

 小渕首相の急死を受けて、(当時幹事長だった森氏自身を含む)五人の自民党幹部の密室談合で後継首相に“選ばれた”森氏は、小沢一郎氏と並んで、密室政治や根回しといった、旧来の自民党政治の象徴と見なされてきた。会長交代劇を機に、公開の場ではないところで、物事が決まっていく、日本の政治の在り方に対する批判的な声が高まっている。

 確かに、公的な場で、まるで身内だけの(=プライベートな)会合でのような気楽な調子で放言し、肝心なことは、密室や根回しで決めるという森氏的な体質は、民主主義の公開性の原則と相容れないように見える。

 しかし、改めて、民主主義的決定には事前の「根回し」は一切不要なのかと問うてみると、そうとは言い切れない側面もある。この点について、政治思想史的に掘り下げて考えてみよう。

 

 公的機関が意志決定を行う会議でどういうやりとりがあったかは全て公開すべきか。直感的に、そうだ、と思う人が多いだろうが、一〇〇%そうだと決めつけるのは、組織の意志決定のための会議に参加したことがない人か、何も考えていない人である。

 大学の教授会で行われる議論で、絶対に外に公開してはいけない内容がある――英語ではそういう内容を〈private〉と形容する。入試の合否、成績評価、卒業の可否、懲戒など、学生の身分や在学年限に関わること、及び、教員の採用・昇格・懲戒など人事に関わることである。

 客観的なデータに基づいているにせよ、特定の個人の能力や人格について価値評価することになるので、議論の記録が拡散すれば、否定的にコメントされた人の名誉やプライバシーの侵害になりかねない。発言した人や、その教授会、延いては大学全体との関係がこじれ、大きな問題に発展する恐れもある。

 

 個人の評価や処遇に関する、特に不利益処分をするか否かの審議は、結果だけ本人に伝え、どのような発言があったかは   private  なままにするのが基本である。各種学校、一般の企業や官公庁の会議でも基本は同じだろう。

 当事者の私的な利害や名誉に関係することは極力外に出さないように気を付けるし、会議の席でどこまで情報伝達するかは、議長役と直接の担当者の間で入念に検討するのが普通である。

 

 私たちのほとんどは“人生経験”から様々な先入観や私的――つまり、他人に公言することがはばかられる――価値観を抱いており、咄嗟に意見を言おうとすると、差別とか名誉棄損に当たるような、とんでもない失言をしてしまうことがある。

 加えて、何千、何万人もの当事者がみな対等な発言権を持っていて、それぞれが勝手に話し始めると、近年のSNSでの“論争”でよくあるように、偏見による思い付きの連鎖と、特定のターゲットへの集中攻撃(リンチ)、炎上が続いて、怒りが増幅するだけで、いつまでも決着がつかない、ということになりかねない。

 かつては、怒りを表明して暴れるにはかなりのエネルギーを要したが、現代では、ネットなどの通信技術の発達で、手軽に“大騒ぎ”できるようになった。

 

 それを防ぐには、少なくとも最終決定を行う議論の場では、様々な立場の人達の意見を代表する立場にある、少人数の代表者にだけ発言を許し、その人たちに理性的な議論のエキスパートになってもらうしかない。それ以外の人は、事前に意見を集約し、代表者にそれを会議で代弁するよう依頼することで我慢しなければならない(=代表制民主主義)。

 実際には、代表者として理性的な議論を行う資質がある人が選ばれるとは限らず、むしろ余計に話をややこしくする人が代表者になることが少なくないが、誰が最も「理性的」なのかを客観的に判定する手段がない以上、やむを得ないことだろう。

 

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仲正 昌樹

なかまさ まさき

1963年、広島県生まれ。東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了(学術博士)。現在、金沢大学法学類教授。専門は、法哲学、政治思想史、ドイツ文学。古典を最も分かりやすく読み解くことで定評がある。また、近年は『Pure Nation』(あごうさとし構成・演出)でドラマトゥルクを担当し、自ら役者を演じるなど、現代思想の芸術への応用の試みにも関わっている。最近の主な著書に、『現代哲学の最前線』『悪と全体主義——ハンナ・アーレントから考える』(NHK出版新書)、『ヘーゲルを超えるヘーゲル』『ハイデガー哲学入門——『存在と時間』を読む』(講談社現代新書)、『現代思想の名著30』(ちくま新書)、『マルクス入門講義』『ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義』『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』(作品社)、『思想家ドラッカーを読む——リベラルと保守のあいだで』(NTT出版)ほか多数。

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