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秀吉生涯一度の戦傷・伊勢阿坂城

鈴木輝一郎 戦国武将の史跡を巡る 第8回

岐阜在中の歴史作家・鈴木輝一郎がゆるりとめぐる、戦国武将の史跡。
つい見落としてしまいがちな渋い史跡の数々を自らの足で訪ね、
一つ一つねぶるように味わい倒すルポルタージュ・ブログシリーズ開幕!

 

まだ戦下手だった頃の秀吉……苦い想い出の戦場

 

戦国の史跡をたずねるのには、自動車とカーナビと事前の下調べは不可欠ですね。
地方の公共交通機関はものすごい勢いで廃止されています。
ぼくのポンコツヴィッツではいまさらカーナビつけるのも腹立たしいので、ガラケーのカーナビアプリ使ってますが、これでもけっこういけます。
今回は伊勢阿坂城(白米城)。
織田信長の伊勢攻め第二弾の話。
 

 

戦国武将ってのは、
「のべつまくなしに生きるか死ぬかの戦いを続けて、
ばっさばっさと敵をなぎたおし」
なんてイメージがありますね。
実際、戦国武将というのは今川義元や武田信玄、毛利元就のような大国をのぞけば、まあ、零細企業のかたまりみたいなもので、徳川家康の実の父親・松平元忠にしたって居城・三河城を追い出されたり家臣に殺されちゃったりしてる。
でも、戦国時代──とくに織豊時代は、ごくごく短期間で零細武将の統廃合がすすんできます。
徳川幕府260年間はほとんど技術の進歩はみられなかったのですが、織田信長が尾張統一をしてから関ケ原の合戦までの40年ほどの間の技術革新ってのは、明治維新から日露戦争までの40年に次ぐぐらいの変化がある。
いちばんの変化は合戦が個人戦から組織戦闘に移行したことかな? 
織田信長は桶狭間あたりまでは自分で槍もって前線で戦ってきましたが、美濃を併合して以後は、滅多に前線に出てこなくなりました。
織田の戦国武将も、騎馬して足軽を指揮する立場になると怪我人が格段に減る。
『勢州軍記』によると、木下藤吉郎は生涯に一度しか戦傷を負わなかった。
ここいらが織田信長と木下秀吉の世代の差が微妙に出てますね。
余談ながら徳川家康は何度も戦死の危険にさらされていますが、一度も戦傷を負っていません。
ここいらの世代差と立場の差は、つい忘れがちになっちゃいますな。
永祿11年(1568)、織田信長は北伊勢神戸氏を攻略し、それから足利義昭を奉じて有名な最初の上洛をはたします。
南伊勢の北畠氏はそのままだった。
そこで翌年永祿12年、織田信長は織田の総力を結集して伊勢の名門・北畠氏の住む、伊勢大河内城の攻略にかかります。
阿坂城はその前哨戦。
永祿12年8月23日のこと。
木下藤吉郎が先がけで阿坂城に攻めかかります。
阿坂城は山城で、なだらかな農地のなかに唐突に突き出す阿坂山にあります。
遠景ではたいしたことはないけれど、実は意外と険しい。
 

 

ぼくは阿坂神社経由で登りましたが、車でゆけるのは五合目ぐらいまで。
その先はハイキングコースになってて歩いてしかゆけない。
──すいません、挫折しました。
「阿坂城跡」で検索をかけると、山頂はかなり見晴らしがいいらしいんですが。
戦国武将の体力はすごいもんだとあらためて痛感。
 

 

これではたしかに織田信長が総軍を投入しても持ちこたえた、って事情はわかりますねえ。
この頃、木下藤吉郎秀吉は「交渉上手だけど実戦経験に乏しい武将」という扱いだったようで、信長も「とりあえずなんとか秀吉に武功を立てさせてやろう」としていたようです。
せっかくの信長の気遣いでしたが、結局伊勢攻めでは木下秀吉はいいところなしに終わります。
戦国武将としての活躍は、越前金ヶ崎城殿軍まで待つことに。
信長は独断専横のイメージが強いし、晩年は本当にかなり強引な人事もやってのけるんですが、この頃はまだ、武功のない秀吉を抜擢できるほどの発言力は、信長でも持っていなかったんですね。
戦国武将と家臣の力関係がわかります。
まあ、いずれにせよ古城めぐりにはスニーカーと……
日頃の足腰の鍛錬は不可欠です、はい。 
(了)

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鈴木 輝一郎

すずき きいちろう

作家

1960年岐阜県生まれ。小説家。歴史小説『浅井長政正伝』『戦国の凰 お市の方』など著書多数。2008年には著作が50冊に達した。

日本推理作家協会・日本文藝家協会・日本冒険作家クラブ会員。


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