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無造作な戦国史跡 妖刀あざ丸・信秀VS道三

鈴木輝一郎 戦国武将の史跡を巡る 第5回

岐阜在中の歴史作家・鈴木輝一郎がゆるりとめぐる、戦国武将の史跡。
つい見落としてしまいがちな渋い史跡の数々を自らの足で訪ね、
一つ一つねぶるように味わい倒すルポルタージュ・ブログシリーズ開幕!

所有者は目を患う!妖刀・あざ丸の呪い!

 

京都が偉いなあと思うのは、そこらじゅうに石碑が建ってること。
源頼政が退治したヌエの首を洗った井戸まで建ってるんだから。
岐阜はといえばそこいらはけっこう無頓着。
場所柄、戦国の史跡がじゃかすかあるのに、わりと無造作です。
今回もそれ。

織田信秀(1511‐51) は織田信長の父親。
斎藤道三は(1504‐56) 父親長井新左衛門のときに美濃に流れつき、道三の代になって主君土岐頼芸を追放して美濃国主になった人。
西美濃・大垣(大柿とも)は美濃国にあるものの、尾張と美濃と近江の国境に近い場所にあり、この三国の間でとりあいになって、なかなか領主が決まらない場所でした。
そんななか、尾張の織田信秀(信長のお父さん)は家臣の織田播磨守を大垣城に常駐させることに成功。
写真は大垣城。
 

 

天文16年(1547)、斎藤道三対織田信秀の決戦が本格化してきます。
織田信秀は稲葉山城(現・岐阜城)のふもとの町に放火して一時優勢になりかけたものの、
斎藤道三の計略にひっかかって大敗しました。
斎藤道三軍は余勢をかって、織田信秀軍の詰める西美濃大垣城まで迫ってきます。
ここからは『信長公記』にある話。
天文16年9月、美濃方の武将・陰山掃部助(かもんのすけ)が、稲葉山での戦いで織田方に大勝したとき、戦死した織田方の武将から「痣丸(あざまる)」と呼ばれる脇差をうばいとった。
この脇差は無銘ながら平景清がさしていたとされる由緒あるものだそうな。
この平景清は戦の最中に失明した、有名な源平武者だそうです。
で、この陰山掃部助が大垣城攻めの際、牛屋村大日寺紗那院に本陣を置いた。
 

 

そしたら城側から打ちかける矢が右目と左目にあたり、左目を失明した。
まあ、そうこうしているうちに織田信秀は駿河の今川義元に攻めこまれ、美濃を攻めている場合ではなくなったので、斎藤道三と和睦することに。
このとき美濃から嫁にきたのが濃姫で、婿が織田信長です。
妖刀・あざ丸はというと、その後、流れ流れて信長の重臣、丹羽長秀の手中におさまるのですが、今度は丹羽長秀が眼病に悩まされた。
「この刀は、持つ人がかならず眼を患う」という噂がたった。
そこで丹羽長秀が妖刀・痣丸を熱田神宮に奉納したところ、長秀の眼病は快癒した、という話。
この「痣丸」はいまでも熱田神宮の宝物殿に収められています。
愛知県文化財に指定されています。
この牛屋村の紗那院、どこにあるのかちょっと探した。牛屋川は大垣城の外堀に転用されている川で、拙宅から徒歩一分の場所にあるけど、そんなお寺は聞いたことがない。
やっとのことで探し当てたら、なんのこたぁない、かかりつけの医者の向かい側にあった。
 

 

そういえばなんか唐突な感じで草むらというか、川幅が広くなってる場所があったんですが、そこは大垣城の堀の内側だった。
この周囲はなんてことのないビルがずらっと並んでいるからわからないけれど、本当に眼と鼻の先に大垣城の本丸がある。
ここで雨あられと降ってくる矢のなかにいたわけですから、戦国武将ってのは根性があったんだなあ、と、妙なところで感心するんでありました。

<了>

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鈴木 輝一郎

すずき きいちろう

作家

1960年岐阜県生まれ。小説家。歴史小説『浅井長政正伝』『戦国の凰 お市の方』など著書多数。2008年には著作が50冊に達した。

日本推理作家協会・日本文藝家協会・日本冒険作家クラブ会員。


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