鬼に金棒、意見に理由【森博嗣】新連載「日常のフローチャート」第7回 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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鬼に金棒、意見に理由【森博嗣】新連載「日常のフローチャート」第7回

森博嗣 新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第7回


森羅万象をよく観察し、深く思考すること。そこに新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白いものになる――。森博嗣先生の新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」。人生を豊かにする思考のツール&メソッドがここにあります。✴︎BEST TIMES連載(2022.4〜2023.9)森博嗣『静かに生きて考える』が書籍化(未公開原稿含む)、2024年1月17日発売。予約受付中。


 

 

第7回 鬼に金棒、意見に理由

 

【理由がなければ理解してもらえない】

 

 その後、おかげさまで(という科学的根拠はないが)、ずっと体調は安定している。毎日ぐっすり眠れて幸せだ。落葉掃除も80%くらいの出力でのんびりとやり遂げている。工作はいつもの半分くらいに自重。小説の仕事はしていない。ただ、今週からゲラを読まないといけない。小説でもエッセィでも、自分の書いた文章を読むほどつまらない時間はない。仕事だからしかたがない、という言い訳で自分を納得させる以外に手はない。「しかたがない」というのは、そういう言葉だ。

 校閲の人がときどき、「表記の揺れ」について指摘してくる。たとえば、僕の場合、「何」と漢字で書いたり、「なに」と平仮名で書いたりしている。どちらも読めるし、間違いではないけれど、気まぐれで定まらないから「揺れ」ていることになり、少々みっともない。プロの物書きとしては避けなければならないのである。

 しかし、これには理由がある。僕は「what」の意味なら「何」とし、「any」の意味なら「なに」と書く。そういう自分のルールに従っている。だから、「何が心配ですか?」「いや、べつになにも」となる。場所の「前」「後」は漢字だが、時間の「まえ」「あと」は平仮名にしている。swingは「ふる」で、shakeは「振る」と書くから、「首を左右にふる」「首をぶるぶると振る」となる。「繰り返す」は動詞だから「り」を送るが、「繰返し」という名詞なら「り」を送らない。この最後のルールなどは、学術論文を書くときにも従っていた。

 このまえ、文章は論文を書くことで覚えたという話をしたけれど、自分だけなら面倒くさいルールはいらない、と感じる。どっちだって良いじゃないか、と思う方だ。

 しかし、学生が書いた文章に赤を入れる場合、「ここは漢字に」「これは平仮名」と直すときに、指導する側が「揺れ」ていては困る。学生から、「どうしてここだけ漢字なのですか?」と質問されたときに、明確な理由を答えなくてはいけない。たとえ勝手なルールであっても、従うべき規準があれば、以後はそれを準拠するだけで楽ができる。つまり、「ここは、なんとなく平仮名の方が良いような気がする」という曖昧さ、あるいは個人の気分は、他者に理解してもらえない。

 これは、広く応用できる。たとえば、意見を述べるとき、なにかの要望をするとき、相手に納得してもらえるだけの説得力が必要だが、「なんとなく」とか「そうしてほしい」とか「その方が好ましい」といった感覚ではなく、なんらかの「理由」が必要であり、その理由は、個人の感情・感覚とは無関係な、誰でも判断ができる規準となる表現でなければならない。この点が、一般的に理解されていないと、しばしば感じるところである。

次のページ意見の対立の典型的パターン

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✴︎森博嗣 新刊『静かに生きて考える』2024年1月17日発売✴︎

 

 

森博嗣先生のBEST T!MES連載「静かに生きて考える」が書籍化され、2024年1月17日に発売決定。第1回〜第35回までの原稿(2022.4〜2023.9配信、現在非公開)に、新たに第36回〜第40回の非公開原稿が加わります。どうぞご期待ください!

 

 

世の中はますます騒々しく、人々はいっそう浮き足立ってきた・・・そんなやかましい時代を、静かに生きるにはどうすればいいのか? 人生を幸せに生きるとはどういうことか?

森博嗣先生が自身の日常を観察し、思索しつづけた極上のエッセィ。「書くこと・作ること・生きること」の本質を綴り、不可解な時代を見極める智恵を指南。他者と競わず戦わず、孤独と自由を楽しむヒントに溢れた書です。

〈無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものなのだから、辻褄が合っている。〉(第5回「五月が一番夏らしい季節」より)。

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森博嗣

もり ひろし

1957年愛知県生まれ。工学博士。某国立大学工学部建築学科で研究をするかたわら、1996年に『すべてがFになる』で第1回「メフィスト賞」を受賞し、衝撃の作家デビュー。怜悧で知的な作風で人気を博する。「S&Mシリーズ」「Vシリーズ」(ともに講談社文庫)などのミステリィのほか、「Wシリーズ」(講談社タイガ)や『スカイ・クロラ』(中公文庫)などのSF作品、また『The cream of the notes』シリーズ(講談社文庫)、『小説家という職業』(集英社新書)、『科学的とはどういう意味か』(新潮新書)、『孤独の価値』(幻冬舎新書)、『道なき未知』(小社刊)などのエッセィを多数刊行している。

 

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