“最後の武士”と言われた新選組・土方歳三だが、実は “銃” 主義者だった!? |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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“最後の武士”と言われた新選組・土方歳三だが、実は “銃” 主義者だった!?

「新選組」の真実⑦

「新選組」といえば『最後の武士』という風なイメージで広く知られ、幕末の騒乱のなか、最新鋭の銃で戦う倒幕軍に対して、最後まで刀で戦ったというエピソードが日本人の心をアツくした。しかし、実際のところ、“鬼の副長”土方歳三は銃を駆使した戦術・戦法にも長け、その土方が率いた新選組もそうであったはず!(『明治維新に不都合な「新選組」の真実』吉岡孝 著より

■土方歳三「戎器(じゅうき)は砲に非ざれば不可」の真意

 鳥羽・伏見の戦いの開戦日である慶応4年正月3日、新選組は会津(あいづ)藩兵とともに伏見奉行所(ふしみぶぎょうしょ)にいた。午後5時頃に鳥羽方面で戦端が開かれると、その直後に伏見方面でも戦闘が開始された。

 新選組と会津藩は、敵が陣を構える御香宮(ごこうのみや)神社に「銃とともに刀槍」で突撃した。しかし、小銃などで激しく反撃され、奉行所まで後退して機会を窺(うかが)い、何度か突撃を仕掛けたという。

 保谷徹によれば、新選組は、たしかに銃撃能力はあったが、その銃は旧式なためか、決定力たり得なかったとしている。そして伏見奉行所から火が出ると、淀(よど)まで退いた。淀藩は老中稲葉正邦(ろうじゅういなばまさくに)の藩であるが、すでに薩長軍と通じており、徳川軍の入城を許さなかった。

 正月4日、徳川軍は鳥羽街道を北上して京へ進もうとするが、薩摩軍に阻まれ失敗した。徳川軍は人数が多いのだから、迂回(うかい)戦法など、やり方はあったはずである。

 だが、いたずらに一直線に北上しようとするのみで、拙劣(せつれつ)というしかない。しかし、これは現場の部隊の罪ではなく、戦略を欠いた高級指揮官の罪である。

 正月5日は宇治川(うじがわ)に沿って、伏見から淀へ伸びる淀堤(よどづつみ)で激戦が展開される。永倉新八(ながくらしんぱち)の記述によれば、新選組は鉄砲を捨てて切り込んでいる。新選組はこの日、井上源三郎(いのうえげんざぶろう)をはじめ14人もの犠牲者を出しており、苦戦だったことは明瞭(めいりょう)である。新選組の洋式化は、その装備も含めて、まだ途上にあったということであろう。

 正月6日には、橋本宿(京都府八幡市)周辺で戦闘が展開した。徳川軍も奮戦したが、戦局を決したのは、淀川対岸の山崎関門(やまざきかんもん)から徳川軍を大砲で撃った「津(つ)藩の裏切り」である。これで徳川軍は総崩れになり、大坂まで敗走した。

 このようにしてみると、徳川軍は敵に倍する兵力を持っていたため、「いずれ勝てる」という慢心が高級指揮官にあったのではないか。それが緒戦(ちょせん)の敗北を招き、「徳川弱し」というイメージが形成され、それに動かされた朝廷によって薩長軍が「官軍」とされ、錦の御旗(みはた)が与えられるという流れを呼んだ。

 しかし、それよりも大きかったのは、幕府の最高司令官である徳川慶喜の「やる気のなさ」である。後年の慶喜の回想(『徳川慶喜公伝』など)では、「天皇に弓を引く気はなかった」という意味のことを繰り返しているが、慶喜は開戦直前の政局の有利さにこだわってしまい、戦争の遂行を放擲(ほうてき)したとしか思えない。武人(ぶじん)としては失格である。

 土方歳三は江戸に帰った後、佐倉藩江戸留守居役(るすいやく)依田学海(よだがっかい)に、鳥羽・伏見の戦いについて「戎器(じゅうき)は砲(ほう)に非(あら)ざれば不可(ふか)。僕、剣を佩(お)び槍を執(と)る。一(ひとつ)も用いる所ところ無し」と語っている。

 この言葉は、「戦闘に用いる兵器は銃砲でなければならない。僕(土方)は刀を差し槍を持って戦場に赴いたが、ひとつも用いることはなかった」と意訳できる。

 この土方の言葉を、「洋式調練を行ってきたのに、それを十分に活かすことができず、図らずも剣を取って戦わなくてはならなかった」ととらえるか、「鳥羽・伏見では洋式戦闘は満足にできなかったが、俺達にはその準備はもうできているから、今度はやってみせますよ」というふうにとらえるかで、土方という人間に対する見方は変わってくるだろう。「剣を佩び槍を執る」という文字だけを見て、「新選組は前時代的な刀と槍で、最新装備の新政府軍に、がむしゃらに突っ込んでいった」と安易に考えることほど、浅い見解はないとだけはいえよう。

 土方は、その後の戊辰戦争の戦いにおいて、実直に訓練を重ねてきた洋式調練に基づく戦術・戦法を駆使して、ミニエー銃を凌(しの)ぐ威力の後装ライフル銃を持った兵たちを指揮し、幾度も勇名を馳せる。見事に鳥羽・伏見の借りを返したということであろう。

KEYWORDS:

『明治維新に不都合な「新選組」の真実』
吉岡 孝 (著)

 

土方歳三戦没150年……

新選組は「賊軍」「敗者」となり、その本当の姿は葬られてきたが「剣豪集団」ではなく、近代戦を闘えるインテリジェンスを持った「武装銃兵」部隊だった!

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◆新選組は幕末アウトロー界の頂点に君臨していた!?
◆幕末の「真の改革者」はみな江戸幕府の側にいた!!

 ともすると幕末・明治は、国論が「勤王・佐幕」の2つに割れて、守旧派の幕府が、開明的な 近代主義者の「維新志士」たちによって打倒され、「日本の夜明け」=明治維新を迎えたかの ような、単純図式でとらえられがちです。ですが、このような善悪二元論的対立図式は、話と してはわかりやすいものの、議論を単純化するあまりに歴史の真実の姿を見えなくする弊害を もたらしてきました。
 しかも歴史は勝者が描くもので、明治政府によって編まれた「近代日本史」は、江戸時代を 「封建=悪」とし、近代を「文明=善」とする思想を、学校教育を通じて全国民に深く浸透さ せてきました。
そんな「近代」の担い手たちにとって、かつて、もっとも手ごわかった相手が新選組でし た。新選組は、明治政府が「悪」と決めつけた江戸幕府の側に立って、幕府に仇なす勤王の志 士たちこそを「悪」として、次々と切り捨てていきました。
 新選組の局長近藤勇は、自己の置かれている政治空間と立場を体系的に理解しており、一介 の浪士から幕閣内で驚異的な出世を遂げた人物です。そんな近藤の作った新選組という組織 を、原資料を丁寧に読み込み、編年形式で追いながら、情報・軍事・組織の面から新たな事実 を明らかにしていきます。
そこには「明治維新」にとって不都合な真実が、数多くみられるはずです。

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吉岡 孝

よしおか たかし

國學院大學文学部教授

1962年東京都国分寺市に生まれる。1986年國學院大學文学部史学科卒業。1992年法政大学大学院人文科学研究科日本史学専攻博士課程単位取得退学。2006年國學院大學文学部専任講師。2008年國學院大學文学部准教授。2017年國學院大學文学部教授。専攻は日本近世史。著書に『八王子千人同心』(同成社 2002年)、『江戸のバガボンドたち』(ぶんか社 2003年)、『八王子千人同心における身分越境―百姓から御家人へ―』(岩田書院  2017年)。監修に『内藤正成の活躍』(久喜市、2018年)、『空襲で消えた「戦国」の城と財宝』(平凡社 2019年)などがある。ブログ「青く高き声を歴史に聴く」blog.livedoor.jp/yoshiokaa1868を執筆。


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