不穏な時代の「読書」こそ人間を精神から鍛えなおしてくれる。【福田和也の読書論】
“知の怪物”が語る「生きる感性と才覚の磨き方」
いま日本人の多くが、社会や国、そして人間関係や自分の将来に、大きな不安と絶望を感じているのではないか。インターネットの進化はもとより、新型コロナのパンデミックがその不安を加速させたのは言うまでもない。
なぜ福田和也はかくも正確に不穏な令和を予言しえたのか。
安定した幻想から醒めきった時に、いかにして日本人は自分の頭と足で生き延びることができるかを、福田は絶えずメッセージとして送りつづけてきた。
待望の初選集『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』の刊行が迫る今、珠玉の読書論を通して、“不穏な時代を生きる感性と才覚の磨き方”を語る。
■なぜ人は本を読むのか
なぜ本を読むのか。
そうした疑問を、あなたは感じたことがあるだろうか。
もしも感じたことがあり、そのことについて考えたことがあるのなら、それだけで君の人生は何ほどかのものだ。身近なことについて、根本的に考えるということはなかなか難しいものだし、さらに自分なりの答を得るのは大変に難しい。
だが、大部分の人間は、私もそうだけれども、そういった問いを持つことなく、書店で本を手に取り、頁に視線を走らせ、そして読み終わるなり飽きるなりすれば、放りだしてしまう。本とのつきあいのなかで、強い印象を受けたり、考えさせられたりはする。その印象がきわめて強いものならば、いつまでも記憶に残っていたり、人に印象を伝えたくなる。そうでなければ、何となく面白かったとか、悲しかったといった感触だけが残って、じきに忘れてしまう。ほとんどの人にとって読書とはそういう経験だろう。楽しみ、暇つぶし、あるいは多少の教養と情報収集のために、書物を手に入れ、頁を繰る。
にもかかわらず、あなたがまた書物を手にするのはなぜなのか。
楽しむためならば、情報のためならば、もっと気の利いたものがたくさんあるのに。テレビ、ビデオ、ゲーム、インターネット……本は数千年前に作られた文字と紙、それに五百年前に発明された、印刷技術という折り紙つきの旧弊なテクノロジーの産物である。
本などは、今になくなるという予測が、マスメディアに溢れているのも無理からぬことだ。にもかかわらず、あなたが本を手に取るとしたら、それはなぜなのか。
あなたが、今日の世の中では、時代遅れとしか云い様のない感性しか持っていないからなのか。
それともあなたが、書物にしかない魅力に、魅力という言葉では示しきれない力に気づいているからなのか。
何を本は提供してくれるのだろう。
その提供してくれるものを、小説にのっとって考えてみることにしようか。
それは、ドラマであり、情景であり、感情の経験だ、と云うのは正しい。そうしたあらゆる要素が入った、一つの物語的な世界に入ることだ、と云うのはもっと正しい。
けれども、それならば小説を読むということは、映画を見たり、ゲームをやったりすることと同じなのだろうか。
確かに映画も、ゲームも、一つの物語的な世界を体験させてくれる。
しかも、小説よりも、数段サービスたっぷりに。映画には具体的に映写される情景がある。光があり、影があり、人々の顔があり、姿がある。声があり、物音があり、音楽がある。さらにゲームならば、あなたはその世界自体にかかわることができる。それなのに、なぜあなたは本を読むのか。