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丹波でめぐる明智光秀ゆかりの地① 丹波篠山城の弐

季節と時節でつづる戦国おりおり第458回

 

 丹波篠山市立田園交響ホールでは、次の写真のように今年の大河ドラマ「麒麟がくる」の宣伝幟(のぼり)やチラシ、ポスターがこれでもかというほどアピールしてきます。もっとも、この稿がアップされる頃にはドラマも終了しているタイミングでしょうか。

 曰く「本能寺の変の謎は、丹波篠山にあり!」。

 あれ?ちょっと待ってくださいよ、丹波篠山城は慶長14年(1609)江戸幕府による「天下普請」で築かれた城ですから、その27年前に死んでいる明智光秀とは何の関係も無いのでは?

 というのは早合点。
丹波篠山市さんの公式HPにもあるように、篠山城ではなくあくまでも篠山という土地が問題なのです。

 天正3年6月10日以前、光秀は反織田勢力を威圧するため一旦丹波国に入り、越前一向一揆討伐への参加を挟んであらためて10月初めに直接丹波に討ち入ります。

 このとき、光秀の主君・織田信長は丹波の北西の但馬竹田城を攻めていた丹波黒井城の赤井直正を討て、と光秀に命じており、光秀が丹波に入ると直正は慌てて黒井城に戻って立て籠もるわけです。

 この黒井城があったのが、篠山から竹田に向かうルートの途中。そのうえ、光秀に協力する丹波の大勢力・波多野秀治の八上城が背後に存在していたために京や本拠の近江坂本との連絡にも都合良く、山ばかりの丹波国内では珍しく人員・物資の集積に便利な広闊地でもあった篠山は光秀にとって好都合な場所でした。

 というわけで、ここ丹波篠山周辺には光秀関連の史跡もあったりしますが、ひとまず先に目の前の篠山城を徘徊しましょう。


 この石碑が建てられているのは大手馬出から大手門へと外堀を渡り、門を入って枡形を通過し、三の丸を縦断した北廊下門あたりとなります。ここから、まずは北廊下で内堀を渡ることになります。

 

内堀

 そして表門、中門、鉄門(くろがねもん)と3箇所の門・2箇所の枡形を経て二の丸へと入って行きます。

この写真が、ちょうど表門から鉄門へと至る通路にあたります。

 

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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