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連合軍の大群を前に始まった、ドイツ軍の「孤独な突進」

「ロンメル親衛隊」、海岸に突破せよ! ~Dデー当日に実施された唯一のドイツ軍戦車部隊の反撃とIV号戦車~ 第9回

「Dデー」――ノルマンディー上陸作戦決行の日であった1944年6月6日、連合軍優勢の中、ロンメル元帥率いるドイツ軍戦車部隊(装甲師団)の反撃があった。Dデーにいたるまでのロンメル元帥を追う。

ドイツ第21装甲師団第22戦車連隊長ヘルマン・フォン・オッペルン=ブロニコフスキー大佐。騎兵出身で1936年のベルリン五輪馬術競技での金メダル受章者。その実績を買われて1964年の東京五輪ではカナダ馬術競技チームを指導している。

海岸線に向かう「孤独な突進」成功す!

前回はこちら:ノルマンディーでドイツ軍の組織的な反撃が遅れた理由

 1944年6月6日15:00頃、第21装甲師団隷下の各部隊はフランスの都市カーン北方の攻撃発起点に集結。いよいよ連合軍の大群を前にした「孤独な突進」が始まった。突進縦列の先鋒を務めるのは、同師団第192装甲擲弾(てきだん)兵連隊第1大隊だ。ちなみに装甲擲弾兵(Panzergrenadier)とは、ハーフトラック(装甲半装軌車)に乗車した歩兵(擲弾兵)のことで、かつて勇猛を馳せたプロイセン擲弾兵にあやかってヒトラーが歩兵を擲弾兵と呼ぶように決めたのに端を発する名称である。ゆえにまったく同様の兵科を、アメリカ軍では機甲歩兵(Armored Infantry)と称した。

 ノルマンディー海岸の連合軍上陸地点は全部で5か所。それらにはすべて秘匿名称が付けられており、最東翼から西に向かって「ソード」(イギリス軍上陸)、「ジュノー」(イギリス連邦カナダ軍上陸)、「ゴールド」(イギリス軍上陸)、「オマハ」(アメリカ軍上陸)、そして最西翼が「ユタ」(アメリカ軍上陸)と称されていた。

 

 第192装甲擲弾兵連隊第1大隊は、ちょうど上陸地点の「ソード」と「ジュノー」が連結する以前の間隙をすり抜けて突進し、抵抗を受けることなく20:00頃にリオン・シュル・メールとラングリュンの間で海岸線に到達。そして、まだ持ち堪えている第716歩兵師団の防御陣地を発見して合同した。

「応援に来てくれてありがたい。後続の兵力はどのくらいだ?」

 土埃と汗にまみれた軍服を纏った第716歩兵師団の下級将校の問いに、第192装甲擲弾兵連隊第1大隊の下士官が答える。

「ウチの戦車連隊も追随しているのでやがて到着するはずです!」

 ほとんど損害を蒙ることなく任務を達成したため、装甲擲弾兵たちの戦意はきわめて高揚していたが、現実は決して甘くなかった。

 一方、ブロニコフスキー率いる同師団第22戦車連隊は、第192装甲擲弾兵連隊第1大隊と合同して歩戦協同で戦うため、あとを追って前進。そして途中で進出路を拡張すべくその突進軸を東翼へと振った。ところがビエヴィルとペリエ・シュル・ラ・ダンの間で、「ソード」の西翼を拡張していたイギリス第27機甲旅団所属の「スタッフォードシャー・ヨーマンリー」連隊(M4シャーマン中戦車の水陸両用型であるM4DDを装備)と、イギリス第3歩兵師団「アイアンサイズ」所属の第185歩兵旅団「キングス・シュロップシャー」軽歩兵連隊第2大隊(歩兵部隊だが対戦車兵器として6ポンド対戦車砲を装備)、やはり同師団所属の第20対戦車連隊(牽引式17ポンド砲とM10駆逐戦車ウルヴァリンを装備)の分遣隊で構成された進出線に真正面からぶつかってしまった。

◎次回は8月2日(水)に配信予定です。

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白石 光

しらいし ひかる

戦史研究家。1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。


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