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ノルマンディーでドイツ軍の組織的な反撃が遅れた理由

「ロンメル親衛隊」、海岸に突破せよ! ~Dデー当日に実施された唯一のドイツ軍戦車部隊の反撃とIV号戦車~ 第8回

「Dデー」――ノルマンディー上陸作戦決行の日であった1944年6月6日、連合軍優勢の中、ロンメル元帥率いるドイツ軍戦車部隊(装甲師団)の反撃があった。Dデーにいたるまでのロンメル元帥を追う。

オルヌ川東岸に降着したイギリス第6空挺師団のホーサ・グライダーの前を進撃する空挺部隊用改造ジープに乗った同師団の空挺隊員たち。ちなみに同グライダーにはジープや6ポンド対戦車砲などが積載できた。

IV号戦車に託されたノルマンディーの運命

前回はこちら:ノルマンディーへの上陸が決まった瞬間

 1944年6月5日深夜から6日未明にかけて、ノルマンディーの上陸海岸の東翼にイギリス第6空挺師団「ペガサス」、西翼にアメリカ第82空挺師団「オールアメリカン」と第101空挺師団「スクリーミングイーグルス」の3個空挺師団が反攻の先鋒として降着した。しかしこの時、不眠症だったヒトラーがやっと眠りに就いていたため、側近たちは遠慮して彼を起こさなかった。

 これが、ドイツ側の組織的な反撃開始を遅延させてしまったいくつかの原因のひとつに数えられている。何しろヒトラーが許可しなければ、反撃の主軸たる装甲師団を出動させることができないからだ。しかも不運は重なるもので、まさに6日が妻の誕生日だったことから、ロンメルは自宅があるドイツ本国のヘルリンゲンに向かっており、ラ・ロシュ・ギュイヨンのB軍集団司令部を留守にしていた。

 かような状況下、連合軍の上陸地点のもっとも近くに展開していた装甲師団である第21装甲師団の師団長エドガー・フォイヒティンガー少将は、海岸を守る第716歩兵師団長ヴィルヘルム・リヒター少将からの強い要請を受け、6日6:30、オルヌ川東岸に降着した第6空挺師団を攻撃すべく独断で同師団を出動させた。

 

 しかし第6空挺師団の前衛とわずかに交戦したところで、第21装甲師団は第84軍団長マルクス大将によって呼び戻された。実はこの時点ですでに連合軍主力が海岸一帯に上陸しており、彼は空挺部隊の排除よりも上陸部隊の追い落としを優先すべきと判断したのだ。

 マルクスは、第21装甲師団に対してオルヌ川西岸沿いに北上し、海岸線に向けて突破せよと命じた。同師団の主軸である第22戦車連隊の連隊長ヘルマン・フォン・オッペルン=ブロニコフスキー大佐は、彼から直接命令を受領する際にこう言われた。

「オッペルン、君がやつらを海に追い落とせなかったら、この戦争は負けだ」。

 自分の指揮下にはわずか100余両のIV号戦車があるに過ぎない。この戦いの趨勢が、たったこれっぽっちの戦車に賭けられているなんて! ブロニコフスキーは内心では慄きつつも決然として応えた。

「承知しました。速やかに攻撃します!」

 かくて、「いちばん長い日」当日にドイツ装甲師団によって実施された、唯一の連合軍への反撃の幕が上がろうとしていた。

◎次回は7月26日(水)に配信予定です。

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白石 光

しらいし ひかる

戦史研究家。1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。


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