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穴山梅雪の遺領と娘の行方

季節と時節でつづる戦国おりおり第491回

江戸繪日本史(国立国会図書館蔵)より穴山梅雪

 今から439年前の天正10年8月18日(現在の暦で1582年9月14日)、徳川家康が穴山梅雪の遺子・勝千代に本領安堵。

 この日、徳川家康は武田勝千世名義に宛てて駿河国のうち山西と河東須津(すど)の知行安堵状を発行しました。この他に江尻の河内も領していた梅雪の身代を、そのまま受け継いだわけです。武田の名字は梅雪が甥の武田勝頼から織田・徳川連合軍に寝返る際に自分の系統が武田家の宗家を継ぐことを条件としていただめで、勝千代は武田家当主としてこの辞令を受けたことになります。

 なぜ勝千代が梅雪の所領を引き継いだか?それは、本能寺の変直後、堺から三河に逃げ帰った家康に同行していた武田家の旧臣・穴山梅雪は、途中で一行と別れ単独行動をとる内、最期を迎えたからです。
 一揆によるとか、明智光秀の手の者によるとか、家康によるとか、いろいろ言われていますけれども、まぁ一揆が妥当なところではないでしょうか。

 家康は、梅雪の跡をその息子の勝千代に安堵したわけですが、5年後にこの勝千代も病死(疱瘡、と言われています)すると、自分の5男に穴山家の跡を継がせ、武田信吉と名乗らせています。
 名家好きの家康らしく、上杉、吉良、今川、足利とまるでコレクションの様に保護した中に武田も入っていたのですが、この信吉も早世したため、結局武田の名跡は生き残る事はできませんでした。

 しかし、それとは別に梅雪の血統は残っています。
『譜牒餘録』には「(家康から勝千代への安堵状)を稲葉丹後守の下付家臣という亀屋善兵衛が所持し、『譜牒余録』に収録された、善兵衛の曾祖父が梅雪で、勝千代死後にその妹が、近江国滋賀郡栗原村の地頭、南道喜に嫁ぐ際にこの朱印状を持って行った、その子が南久左衛門で、さらにその子が亀屋善兵衛だ」と注記されています。
 地頭というから、まぁその地の豪族ではあったのでしょうが、梅雪の娘がなぜまたそんな縁もゆかりもなさげな土地の、豪族程度の家に嫁いだのでしょうか。
 筆者としては、武田の名跡よりこちらの方がよほど面白く感じられます。
 その経緯を考えると、なんだか短編ネタになりそうな気がしますよね。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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