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腫れ物に触るような福島正則の改易

季節と時節でつづる戦国おりおり第483回

 今から402年前の元和5年6月2日(現在の暦で1619年7月12日)、広島藩主福島正則が広島城の無断改修を江戸幕府から咎められ、所領49万石を没収されました。

 安芸・備後2ヶ国を領していた福島正則。酒乱で、酔って家臣を斬り殺したなどという物騒な逸話を持つ戦国生き残りの暴れん坊・正則は、暴政と広島城無断修築後の破却命令を無視した事を理由として、改易される事になりました。

 当時、秀忠は京におり、江戸にいる正則をどう扱うかで相当神経を使います。
なにせ相手は関ヶ原の戦いで先鋒として奮戦するなど、猛将として名高い男。

 おそらくは上洛自体も正則が留守にしている広島城が不穏な動きを見せた時の鎮圧が主目的だった筈で、伊達・藤堂・井伊といった徳川幕府の主戦級大名が供奉していました。

 井伊直孝は正則を江戸から京へ呼び寄せて申し開きを聞くか、領地で申し開きしたいと言うならば安芸へ帰らせよう、あるいは江戸屋敷で反発するようであればそのまま攻めてしまえ、と主張しましたが、高虎は屋敷といえでも一旦立て籠もられるとなかなか厄介だと反対。直孝は「高虎はいつそういう経験をしたのか」と食い下がっています。

 実は、高虎は少年時代に近所の屋敷に立て籠もった賊を退治した経験があるのですが、それをこの場で披瀝した形跡は無く、秀忠は直孝の第二案を採用しました。

 14日、江戸の正則の元に上使が到着します。

「家康が生きている内なら、功績に免じて、と許しを乞う事もできたが、秀忠に対しては何の功があるわけでも無いから仕方ない」(『福島正則一代記』)と諦めていた正則は、刀も差さずふたりの幼い娘の手をひいて出て来、徳川家に忠を尽くしたから七代まではどんな罪があっても許される筈のものを、自分一代さえ許されないとは、と嘆いて娘たちの事を頼んだのでした(『野史』)。

 使者と正則が交渉している時、愛宕山の上に鉄砲を並べ、二重三重に包囲した軍勢が福島屋敷にいつでも突入できるように準備済みだったと伝わっています。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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