「新選組」といえば『最後の武士』という風なイメージで広く知られ、幕末の騒乱のなか、最新鋭の銃で戦う倒幕軍に対して、最後まで刀で戦ったというエピソードが日本人の心をアツくした。しかし、実際のところ、“鬼の副長”土方歳三は銃を駆使した戦術・戦法にも長け、その土方が率いた新選組もそうであったはず!(『明治維新に不都合な「新選組」の真実』吉岡孝 著より

■土方歳三「戎器(じゅうき)は砲に非ざれば不可」の真意

 鳥羽・伏見の戦いの開戦日である慶応4年正月3日、新選組は会津(あいづ)藩兵とともに伏見奉行所(ふしみぶぎょうしょ)にいた。午後5時頃に鳥羽方面で戦端が開かれると、その直後に伏見方面でも戦闘が開始された。

 新選組と会津藩は、敵が陣を構える御香宮(ごこうのみや)神社に「銃とともに刀槍」で突撃した。しかし、小銃などで激しく反撃され、奉行所まで後退して機会を窺(うかが)い、何度か突撃を仕掛けたという。

 保谷徹によれば、新選組は、たしかに銃撃能力はあったが、その銃は旧式なためか、決定力たり得なかったとしている。そして伏見奉行所から火が出ると、淀(よど)まで退いた。淀藩は老中稲葉正邦(ろうじゅういなばまさくに)の藩であるが、すでに薩長軍と通じており、徳川軍の入城を許さなかった。

 正月4日、徳川軍は鳥羽街道を北上して京へ進もうとするが、薩摩軍に阻まれ失敗した。徳川軍は人数が多いのだから、迂回(うかい)戦法など、やり方はあったはずである。

 だが、いたずらに一直線に北上しようとするのみで、拙劣(せつれつ)というしかない。しかし、これは現場の部隊の罪ではなく、戦略を欠いた高級指揮官の罪である。

 正月5日は宇治川(うじがわ)に沿って、伏見から淀へ伸びる淀堤(よどづつみ)で激戦が展開される。永倉新八(ながくらしんぱち)の記述によれば、新選組は鉄砲を捨てて切り込んでいる。新選組はこの日、井上源三郎(いのうえげんざぶろう)をはじめ14人もの犠牲者を出しており、苦戦だったことは明瞭(めいりょう)である。新選組の洋式化は、その装備も含めて、まだ途上にあったということであろう。

 正月6日には、橋本宿(京都府八幡市)周辺で戦闘が展開した。徳川軍も奮戦したが、戦局を決したのは、淀川対岸の山崎関門(やまざきかんもん)から徳川軍を大砲で撃った「津(つ)藩の裏切り」である。これで徳川軍は総崩れになり、大坂まで敗走した。

 このようにしてみると、徳川軍は敵に倍する兵力を持っていたため、「いずれ勝てる」という慢心が高級指揮官にあったのではないか。それが緒戦(ちょせん)の敗北を招き、「徳川弱し」というイメージが形成され、それに動かされた朝廷によって薩長軍が「官軍」とされ、錦の御旗(みはた)が与えられるという流れを呼んだ。

 しかし、それよりも大きかったのは、幕府の最高司令官である徳川慶喜の「やる気のなさ」である。後年の慶喜の回想(『徳川慶喜公伝』など)では、「天皇に弓を引く気はなかった」という意味のことを繰り返しているが、慶喜は開戦直前の政局の有利さにこだわってしまい、戦争の遂行を放擲(ほうてき)したとしか思えない。武人(ぶじん)としては失格である。

 土方歳三は江戸に帰った後、佐倉藩江戸留守居役(るすいやく)依田学海(よだがっかい)に、鳥羽・伏見の戦いについて「戎器(じゅうき)は砲(ほう)に非(あら)ざれば不可(ふか)。僕、剣を佩(お)び槍を執(と)る。一(ひとつ)も用いる所ところ無し」と語っている。

 この言葉は、「戦闘に用いる兵器は銃砲でなければならない。僕(土方)は刀を差し槍を持って戦場に赴いたが、ひとつも用いることはなかった」と意訳できる。

 この土方の言葉を、「洋式調練を行ってきたのに、それを十分に活かすことができず、図らずも剣を取って戦わなくてはならなかった」ととらえるか、「鳥羽・伏見では洋式戦闘は満足にできなかったが、俺達にはその準備はもうできているから、今度はやってみせますよ」というふうにとらえるかで、土方という人間に対する見方は変わってくるだろう。「剣を佩び槍を執る」という文字だけを見て、「新選組は前時代的な刀と槍で、最新装備の新政府軍に、がむしゃらに突っ込んでいった」と安易に考えることほど、浅い見解はないとだけはいえよう。

 土方は、その後の戊辰戦争の戦いにおいて、実直に訓練を重ねてきた洋式調練に基づく戦術・戦法を駆使して、ミニエー銃を凌(しの)ぐ威力の後装ライフル銃を持った兵たちを指揮し、幾度も勇名を馳せる。見事に鳥羽・伏見の借りを返したということであろう。