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インフレ茶器

季節と時節でつづる戦国おりおり第432回

 新型コロナウィルスの影響もあり老舗レナウンが民事再生手続きに入るなど、実体経済への悪影響が見える形になって来た今日この頃。とはいうものの、日経平均は底入れし5000円ほど回復上昇、ロレックスなど高級腕時計も高止まり、自動車も高額車種が幅を効かせる状態が続いています。野菜も小麦粉も高い。このインフレ傾向、一体全体どうなってるんでしょうか(笑)。

千利休像(堺市)。家康から秀吉に「初花」が贈られたことを記した書状が残る。

 今から437年前の天正11521日(現在の暦で1583710日)、徳川家康が、宿老の石川数正を秀吉のもとへ派遣し、賎ケ岳と北ノ庄戦勝の祝いとして茶入「初花」を贈る。

賤ヶ岳の戦いで勝利し、柴田勝家を北ノ庄城で自決させた秀吉に対し、家康が外交辞令として戦勝祝賀のために贈ったのが、足利義政が所有した「大名物」として知られる唐物肩衝茶入、銘「初花」です。

この品は、信長の茶器コレクションのひとつで、天正5(1577)1228日に、信長から、すでに織田家家督を譲渡されていた嫡男の信忠へ、三位中将への叙任の祝いとして贈られた由緒があり、本能寺の変後に流失してなぜか家康の旧臣だった長沢松平家の親宅(ちかいえ)の手に渡り、親宅から家康に献上されたものです。

そういういわれの茶器ですから、秀吉にとっては自分が旧主・信長の後継者である事を誇示する格好の道具になります。

秀吉の側近・千利休が「初花、近日徳川殿より来たり候。(中略)年来にまで様々迷惑までに候」(先日、初花を徳川殿が送って来たが、いつもこんな騒ぎでとまどうばかりだ)と書状に記したように、この初花到来を秀吉は大々的に喧伝し、大いにプロパガンダに活用したようです。

さて、家康がこの初花を贈る際、代理として秀吉のもとに赴いたのは重臣の石川数正。

のちに秀吉に籠絡されて寝返る人物です。

一方、秀吉が返礼の使者として家康に派遣したのは津田盛月。織田一族で、黒母衣衆のひとりとして信長に仕えた男です。のち兄の中川重政が柴田勝家と領地問題で紛争を起こしたため、勝家の代官を盛月が斬って信長の怒りに触れ、追放されて秀吉に仕えていました。

彼が家康に祝い返しとして持参したのは、これも信長遺愛の名刀・不動国行。

不動国行は剣豪将軍・足利義輝から松永久秀、信長と伝わった逸品で、信長自慢の品だったと言いますが、同じ信長コレクションでも、初花の来歴を利用するつもりの秀吉としては、不動国行など目ではない、という態度を取ってみせ、それによって初花の価値―織田政権の継承者の地位の証明―を演出してみせたのでしょう。

しかし、その後ふたたび初花は家康の手に戻ります。秀吉からの形見分けとして初花を貰った宇喜多秀家が、関ヶ原の戦いで敗北したからです。大坂夏の陣で活躍した松平忠直に与えられた初花ですが、忠直はこの褒賞を不満として乱行に及び、ついには改易の憂き目を見ました。家康は、秀吉と違って単なる茶器に「政権の象徴」的な価値を一切認めず、当然ながらそういう演出もせず恬淡と忠直に下しましたが、そういう空気は忠直にも伝わり、「茶器なんか何の価値も無い!」と怒りの原因となったわけです。秀吉と家康の人間性の違いがよく出ていて面白いな、と思いますね。

ちなみに家康への使者に立った盛月、その後も家康との外交チャンネルを担当し、小牧・長久手の戦いでの講和交渉などに奔走しています。一方、彼の兄の重政は織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦い後の消息は不明です。

兄弟が、紙一重の縁で正反対の運命をたどるのも歴史の皮肉です。

 ともあれ、茶器ひとつが外交の重要なアイテムとして用いられ、茶好きの武将・滝川一益などは「国よりも名器〝珠光小茄子〟が欲しかった」と語ったと伝わるほどに茶器の価値が騰がった時代。茶器の価値のインフレは、その時代から現在に至るまで続いているようです。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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