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酒で命を縮めた?蒲生氏郷

季節と時節でつづる戦国おりおり第468回

 大阪・天王寺区の一心寺さんには、本多忠朝という武将のお墓があります。

 忠朝は有名な本多忠勝の次男ですが、大坂夏の陣の最終決戦・天王寺口の戦いで毛利勝永隊と激戦の末討ち死にしました。

 彼は生来の酒好きで、冬の陣では酔っ払って敵にしてやられ、家康から叱責を受けていました。このため命と引き換えに名誉を挽回しようと敢えて死地に赴いたのです。
 臨終の言葉は「戒めるべきは酒なり。将来、酒のために身を誤る者を助けよう。我が墓に参る者は必ず酒嫌いとなる」だったといい、以来、この地で酒封じの神として尊崇されています。

 事ほど左様に、戦国武将には酒で失敗する者が多くいたようで、そっちの代表格は福島正則。泥酔して黒田長政の重臣・母里多兵衛友信にも酒を強要し、賭けをしてまんまと名槍・日本号を呑み取られています。

 そして、今回紹介する蒲生氏郷も、酒で命を縮めた可能性が高いのです。今から426年前の文禄4年2月7日(現在の暦で1595年3月17日)、蒲生氏郷が京都で没。享年40歳(数え)。

 公家の日記『言経卿記』に「蒲生飛騨守、去る七日死去」とあります。逸材の誉れ高かった会津領主・蒲生氏郷がこの日、京・伏見にあった蒲生屋敷で死去しました。
『医学天正記』によれば、肥前名護屋の陣中で下血し、黄疸、体重減少があり目の下にはわずかに浮腫が現れていたのに加えて、その後浮腫が進み腹もむくんで来たという事です。
 腹部のむくみというのは、おそらく腹水でしょう。
 死病としては末期ですね。直腸癌や膵臓癌という説もあるようですが、個人的にはアルコール性の肝硬変あるいはそれから進行した肝臓癌だったのではないか、と思いますね。
 症状が「酒疸」と診断された小早川秀秋と似通っているようですし、氏郷は領地の会津に上方から酒造業者を呼び寄せて会津の銘酒の基礎を作ったほどの酒好きですから。
 飲んべえはよく「好きな酒を飲んで死ぬのは本望だ」と言いますが、氏郷もその手の酒豪だったのでしょうか。

 氏郷の死の直後、秀吉はその跡目を息子の秀行に継がせ、徳川家康の娘の振姫を娶らせて家康に後見させる事を決めました。
「諸事亜相より奥州の儀意見すべきの由」と、山科言経も亜相(大納言)の家康が会津蒲生家以北、奥州の監督者に任ぜられた事を記録しています。
ところが、それからしばらくして、秀行は家中不統制を理由に左遷され、会津には上杉景勝が入った事は周知の通りで、このあたりの経緯には反家康(というよりも中央集権派)の猛烈な巻き返しがあった事がうかがわれます。

 彼の死から10日後の17日には、京・大徳寺の僧によって千本で葬儀が営まれました。

滋賀県蒲生郡日野町の蒲生氏郷像

 

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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