丹波でめぐる明智光秀ゆかりの地③丹波篠山城の参 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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丹波でめぐる明智光秀ゆかりの地③丹波篠山城の参

季節と時節でつづる戦国おりおり第461回

 前回紹介した内堀。北廊下から撮影したものですが、その特徴は何と言っても二度にわたって90°屈曲した形状。これは二の丸の外郭線に合わせているわけですから、つまり二の丸が鍵型に曲がっているということです。それは何故か。城の北から攻めて来た敵が門を突破し、枡形に満ちると、前回紹介したように北廊下門を破って表門・中門・鉄門と順次制圧して二の丸に攻め込むことになるのですが、この諸門の経路は非常に狭くいくら大軍で攻め寄せてもここでギューッと絞られた縦隊にならざるを得ず、滞留した敵は二の丸から弓鉄砲で攻撃されればどんどん損害を増やしていきます。
 それを防ぐため、敵は枡形から溢れて二の丸を左右に回り込んで内堀をどこかで渡ってやろうとするわけですが、ここでこのクランク状に曲がった二の丸の内部から縦横に弓鉄砲を雨あられと降らせれば、敵は大混乱に陥るでしょう。この美しい直角の連鎖は、それを狙った恐ろしい罠なのです。築城名人と言われた藤堂高虎が縄張り(設計)奉行となり、その家臣・渡辺勘兵衛が実務を取り仕切ったという篠山城ならではの実戦的な思想がそこには籠められていました。

 でも、篠山城は良く知られているように徳川家康が豊臣秀頼の大坂城を監視する目的で築いた「天下普請」の城のひとつ。大坂城のある南の方面ではなく、北の大手側がこのように厳重な防備を固めていたのはなぜでしょうか。
 それは、城の南が篠山川に近く、これを天然の外堀として活用できるのに対して北は平坦地が続き大軍を食い止める手段が乏しいためです。南は当然大坂城からの軍勢を想定しているとして、北は何か。丹後田辺の京極氏、因幡鳥取の池田氏と、豊臣家恩顧の大名たちがその仮想敵だったのでしょう。京極高知はこの篠山築城工事にも従事しましたが、自分を警戒する城を自分が築くというのは、どんな気持ちだったのでしょうか。


 この天守台に登って、南を臨むと、次の写真のような風景が目の前に広がります。

 結構な高さがありますね。
 二の丸から本丸は一段高く、さらに南西隅の天守台はさらに一段高くなっています。実際には天守閣は作られませんでしたが、それでも防御には充分な高さです。見下ろす三の丸は、馬場として使われました。三の丸の土居も相当な高さがあり、外堀と組み合わされて鉄壁の防衛構造となっていることが、上から見て取れます。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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