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信長の館の跡は中学校になっていた?

季節と時節でつづる戦国おりおり第312回

信長小牧山城の面影②

 山の麓の東面はいくつかの帯曲輪で区画されており、かなり大規模な土塁が周囲にめぐらされています。左の写真はその断面部分を展示してくれているのですが、高さは大体4mといったところ。土の層が何重にも重ねられており、丹念に突き固めていった様子をうかがうことができます。これは小牧の戦いの際に築かれたもの。

 

 信長の時代にはこの土塁は無く、曲輪は堀で囲まれていただけで、外部とツライチだったようですね。

 

 一方、信長の時代からあったのがこれ。東南端にある一番広い帯曲輪です。帯曲輪自体はすべて信長時代からですが、この写真の402号曲輪は最大規模で、信長の日常用の館が置かれていた可能性があるとされています。たしかに広い、野球場がとれそうだ、と思ったら、一辺が75mもあるとか。かつては中学校があったそうです。筆者はその当時にも何度か来ているのですが、まるで記憶がありません(苦笑)。その後盛り土面を削って本来の地表を復元、発掘調査をおこなったそうです。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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