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名古屋人以外も知っていてソンはないまち〈長久手〉

名古屋地名の由来を歩く

「長久手」→「長湫」だった。「湫」とは?

 ところで、この「長久手」という地名の由来について述べてみよう。
「長久手町」は明治39年(1906)、「上郷村」「岩作(やさご)村」「長湫(ながくて)村」の三つの村が合併して成立した。以来「長久手」という表記に統一されていたが、それ以前は多く「長湫」という表記が用いられていた。
「湫」というのは、一般名詞で「じめじめして水草などが生えている低地」を意味している。この一帯には湧水地をそのまま田んぼにしたところもあり、昔から湿田地帯として知られていたらしい。

 だから、「長湫」とは文字通り、「長い湿地帯」を意味するのだが、「湫」のイメージを変えるために「長久手」と表記するようになったということである。

 さて、話を秀吉と家康の時代に戻そう。小牧・長久手の戦いでは、部分的に秀吉軍が勝ったこともあるが、特に長久手では家康軍の圧勝に終わった。ところが、信雄が家康に断りもせず、秀吉に和睦(わぼく)を申し入れ、秀吉もそれを諒としたため、戦いは終わった。

 この戦いで、信雄は伊勢国の大半と伊賀国を秀吉に譲ることになり、事実上の敗北となった。この結果、秀吉は旧信長家臣団を臣従させ、実質的に勢力を増す。翌年には関白となって天下統一への道を歩むことになる。

 家康も結果的には秀吉に臣従するが、この戦いで全国的にその名を馳せ、秀吉軍の中でも別格の位置にその歩を進めていくことになる。

〈周辺ガイド〉

色金山歴史公園:小牧・長久手の戦いの際、徳川家康が山頂に陣取ったという言い伝えが残り、国の史跡に指定されている。また山頂には家康の腰掛石になったとされる大岩があり、床机石といわれている。展望台や茶室が整備され、憩いの場となっている。

安昌寺:色金山近くにある曹洞宗の寺。多数の戦死者に心を痛めた雲山和尚が、池田恒興、森長可など秀吉方の名将をはじめ、合戦で死んだ武将を敵味方の区別なく供養したという。

『名古屋地名の由来を歩く』(著・谷川彰英)より構成〉

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谷川 彰英

たにかわ あきひで

筑波大名誉教授

1945年長野県生まれ。ノンフィクション作家。東京教育大学(現・筑波大学)、同大学院博士課程修了。柳田国男研究で博士(教育学)の学位を取得。筑波大学教授、理事・副学長を歴任するも、退職と同時にノンフィクション作家に転身し、第二の人生を歩む。筑波大学名誉教授。日本地名研究所元所長。主な作品に、『京都 地名の由来を歩く』シリーズ(ベスト新書)(他に、江戸・東京、奈良、名古屋、信州編)、 『大阪「駅名」の謎』シリーズ(祥伝社黄金文庫)(他に、京都奈良、東京編)『戦国武将はなぜ その「地名」をつけたのか?』 (朝日新書)などがある。

 

 

 

 

 

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  • 谷川 彰英
  • 2011.10.08