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九州の古代遺跡で「卑弥呼の時代」を再発見

魏志倭人伝ゆかりの地を巡る。―その❶―

 邪馬台国はどこにあったのか?そして、卑弥呼は実在したのか?
 いまなお、日本人がその謎に胸をときめかせるこの歴史テーマは、たった二千字で書かれた「魏志倭人伝」がもたらしたものだ。
 自国でなく、外国で書かれた文献の信憑性を疑う議論もあるけれど、古代ファンにとっては謎多き古代を探るための、ひとつのよすがにはなるはずだ。いつかそのあたりも取材をしてみたいが、難しい議論はひとまず専門家にまかせるとして、ここは魏志倭人伝に沿って旅を楽しんでみたいと思う。
 邪馬台国は畿内なのか?はたまた九州なのか?さらにいえば、東遷説が正しいのか?
 そして卑弥呼の都とは?
 この謎解き、熱き論争は、江戸時代から始まり、現代もなお、続いている。それぞれの地で、遺跡や遺物の新発見が相次ぎ、そのたびに論争が再燃するが、未だ、決着を見ていない。
 なぜ、こんなに日本人は熱狂するのだろうか。司馬遼太郎氏がいうところの「われわれ日本人の祖形」をどうしても求めたくなるからではないだろうか。

「今使譯所通三十國」
 魏志倭人伝によると、1700年以上前、「倭国」と呼ばれた我が国には、三十ほどのクニグニがあったという。諸説あるが、その中で、所在地がおおよそ比定されているのが、対馬国(対馬)、一支国(壱岐)、末盧国(唐津市)、伊都国(糸島市から福岡市西区)、奴国(春日市から福岡市)の、九州における5つのクニといわれている。
 今回の旅では、その中で奴国、伊都国、そして末盧国の数々の遺跡を巡った。筆者は関西在住者として大和説を応援したいけれど、九州には九州の、かの地の思いが強く、熱くあるはずだ。ここは現地に行って、肌でいろいろなことを感じてみたいと思う。

【奴国へ】
 奴国は、春日市から福岡市博多区にかけて那珂川と御笠川に挟まれた地域に広がっていたとされる。魏志倭人伝の中で、「二万余戸」と記されている大国だった奴国。青銅や鉄器、ガラス製品などの工房跡が数多く確認されているようで、もしかすると当時、倭国を牽引する最先端技術国だったのかもしれない。

広大な安徳台遺跡を空から見る。一帯は今も稲作が盛んに行われている。

 

●安徳台遺跡(国史跡)
 奴国で最初に訪れた安徳台遺跡は那珂川の右岸の台地に展開した、広さ10万㎡にもおよぶ大規模な集落遺跡だ。ここからは弥生時代中期の有力者の墓や住居跡が見つかっている。有力な首長のものと考えられる甕棺墓からは鉄製の武器やガラス製品、ゴボウラ貝でつくった貝輪が43個以上も発見されている。ゴボウラ貝というのは南西諸島でしかとれない巻貝で、一つの貝から1個の腕輪しか作れないそうだ。こんな貴重な腕輪を43個も有する人物とは一体どれほどの財力と権力を持っていたのだろうか?むくむくと想像が広がっていく。

安徳台遺跡 5号・2号甕棺の出土時の写真。中に人骨や副葬品が見える。それにしても甕棺とは不思議なかたちだ。

希少なゴボウラ貝の腕輪は2号棺に43個以上も副葬されていた。この頃から確かな身分制度があり、この被葬者はかなり高位の人物だったのだろう。

安徳台遺跡 2・5号甕棺から出土した豪華な装身具類。髪飾りに使ったと考えられる塞杆状副葬品(左)、勾玉(右上)、管玉(右下)。

 あたり一帯は水田地帯で、安徳台遺跡がある台地からぐるりと見渡すことができる。近くには4世紀後半に築造されたと考えられる安徳大塚古墳がある。墳丘長64mの美しい前方後円墳で葺石や埴輪が確認されている。この地では時代を超えて、優れた首長が何人も現れて、豊かな人の営みが長く続いていたことがわかる。弥生時代、いや、もっと古くからここで人の営みがあり、やがて王が現れてクニが成立し、王墓が古墳へと変わっていった。その時間の流れごと、景色の中に見ることができるようで、壮大な気分になる。
 
●裂田の溝(サクタノウナデ)
 日本書紀に記されている日本最古の農業水路。神功皇后が開削したとされる用水路で、総延長は約5.5kmに及ぶ。花崗岩が多い地域で、大岩や台地を貫いて溝を掘り抜く一大土木事業が古代、ここで行われた。豊かな水田地帯をくねくねと曲がりながら、古代の用水路が今なお、大地を潤しながら流れ、人々の暮らしを支えている。豊かな水と稲作。日本の暮らしの土台は、こういう景色にあるのだなと思う。

民家と田んぼの間をくねくねと続く裂田の溝。

【伊都国へ】
 伊都国は糸島市から福岡市西区一帯に展開したクニで、玄界灘に面した大陸に近いという地の利を生かして、発展してきたと考えられている。とくに糸島半島は古代より大陸の玄関口として機能しており、水稲文化をいち早く受け入れて、弥生文化が花開いた。
 魏志倭人伝には、「世々王有り」とあり、王が存在するクニとして、魏国にも認められていたことがわかる。また、卑弥呼が邪馬台国から中国に朝貢する使者を検閲する機関といわれる「一大率(いちだいそつ)」が設置され、対外の行き来の要衝として発展した。

●三雲南小路遺跡(国史跡)
 江戸時代の土取りで偶然発見された三雲南小路遺跡。銅剣が立てて埋められ、銅戈なども発見された。さらにその下に二つの甕を組み合わせた、ちょっと巨大な落花生を思わせる大型の甕棺が見つかった。
 三雲南小路遺跡と近くの井原遺跡の一帯は、伊都国の中心的集落があったとされるが、この地を治めていた人物、つまり王族たちの最初の王墓とされるのが、ここ三雲南小路遺跡である。
 資料によると「江戸時代に一度、発掘されていて、そのときも大量の銅鏡が見つかっているというが、それらはどこにあるか不明。昭和50年に再び、福岡県教発掘調査が行われ、新たに2号甕棺が発見された。副葬品として銅鏡22面以上のほか、碧玉製の勾玉やガラス製の勾玉、管玉、さらには、珍しい金銅製の四葉座飾金具など、豪華な副葬品が出土している」とのこと。副葬された銅鏡はすべて中国製で、2つの甕棺を合わせて57面以上、出土したそうで、これは国内でも突出して多い。これは当時の伊都国と漢(中国)の密接な関係を伺わせる。「世々王あり」と中国も認めた王が、この地に確かにいたのだろう。他の墓域とは明らかに距離をおいた特別なこの墓は、まさしく王墓と呼ぶにふさわしい。

伊都国歴史博物館に展示されている三雲南小路2号甕棺。その大きさにまず驚く。今は静かな野原に長い間、強き王が眠っていたのだ。

草が生えていない部分が埋葬施設があった場所。

 2000年前の奴国の王の巨大な甕棺墓が発見された場所。とにかくすごい遺跡なのだが、現地に行ってみると、いまは、柔らかな草に覆われて、のんびりとした風情が漂う。掘り起こされた場所は、草が薄くなっていて微かにわかる程度だ。
 奴国の人心を掌握したであろう王が眠りについた場所だが、あたりは田んぼに囲まれて、ことさら目立つモニュメントなどもない。なんというか、カラリと清々しくて、一抹の寂しさがあって、ここに眠っていたひとは、栄耀栄華の中にあっても、人には言えぬ寂しさを抱えた孤独な王だったのだろうか。寂しげで端正な横顔まで見えるようで、妄想が広がっていく。
 遺跡の真ん中でぼんやり突っ立っていると、頭上の空に雲が急にむくむくと湧いてきて、古代の王の墓域を風がさーっと通り過ぎていった。

突然、空にむくむくと雲が湧き出てき て、あたりの空気が一瞬にして変化した。

●志登支石墓群(国史跡)
 稲作の伝来とともにさまざまな文化が大陸から伝わったが、その中の大切な要素の一つに支石墓がある。支石墓とは大きな上石を数個の支石で支える墓の形態で、朝鮮半島で盛んにこの墓制が用いられたという。
 水田が青々と広がる向こうに、糸島富士と呼ばれる美しい円錐形の可也山(かやさん)がその頂を見せ、古代もさして変わらぬ景色だったにちがいない。
 支石墓群は広大な平野部の微高地に造られており、弥生時代早期から中期にかけての支石墓10基、甕棺墓8基が見つかっている。支石墓に使われている玄武岩や花崗岩の産地で最も近いのは可也山だそうで、おそらくこの山から運んできたのだろう。

遠くに美しい可也山を望む場所に弥生時代の墓域がある。

 可也山という名も朝鮮の「伽耶国」を思わせるし、副葬品の朝鮮系磨製石鏃が出ていることからも、糸島半島が古代から大陸と強い結びつきがあったことを伺わせる。柳葉形磨製石鏃と呼ばれる形状は朝鮮で多く見られるもので、この石鏃も朝鮮製と考えられている。大陸からやってきた一族が、故郷の道具や生活様式を守りながら、異国での営みを続けていたのだろうか。

8号支石墓から出土した柳葉形磨製石鏃4点。この墓域の被葬者と大陸との密接な関係を伺うことができる。

 水田地帯の真ん中に、ポツンと低い浮島のようにも見える志登支石墓群。柔らかな緑の草の中にぽこんぽこんと石が点在している。寄り添うように並んでいるさまは、被葬者同士の深い縁を感じさせる。空は明るいのだが、小雨が降ってきて、時折強い風が吹いていたせいか、墓域ということだけでなく、少しもの悲しい雰囲気が漂う。
 ある研究者に聞いたことだが、大陸から渡ってきた人々は特殊な技術や知識を持ち、身分を保証されて厚遇されながらも、生活圏も墓域も日本人とは一線を画していたという。同朋と健気に生きながらも、そこには孤独や不安がいつもあったような気がする。
 大陸から渡ってきた人々がここに代々の墓をつくり、弔いのたびに可也山を眺めて祖国に想いを馳せたのかもしれない。

静かな支石墓群にひっそりと石柱が建つ。

 筆者は古墳オタクであり、古墳時代がなんと言っても好きなのだが、古墳時代の始まりの前は弥生時代だったわけで、さらにその前は縄文時代があり、人の営みはもっともっと遡っていけるのだ。そこを知らなくとも良いというわけにはいかないだろう。そんなことをしみじみ考えさせられた。
 九州には稲作、墓域の築造、集落の構成など、古代から相当、高度で優れた文化があり、その発展力は畿内と肩を並べるほどだったはずだ。いや、九州は大陸から情報や技術がどこよりも早く入ってくるという地理的優位性があった分、もしや、卑弥呼の都は九州だったのではないだろうか?という思いもよぎる。現地に行って遺跡と遺物を目の当たりにし、その空気を感じてみると、人の思いや考えには化学変化が起きるのだ。簡単には結論は出せないけれど、九州という場所はあなどれないということをひしひしと感じる。

 次回は、魏志倭人伝に同じく登場する、末盧国(唐津)へと向かう。お楽しみに。
 〜その❷に続く〜

 

【ここも訪ねたい!近隣のミュージアム】

●糸島市立伊都国歴史博物館

伊都国の王都の最初の王墓とされる三雲南小路遺跡の甕棺をはじめ、平原遺跡から出土した国宝の40面の銅鏡、展示室中央にどんと構える平原遺跡の埋葬施設の模型など、なかなか見応えがある。装飾品も美しく、弥生人のセンスに心惹かれる。
DATA
住所・福岡県糸島市井原916  電話・092-322-7083  開館時間・9:00〜17:00(入館は16:30まで)
入館料・大人220円/高校生110円   休館日・毎週月曜日、年末年始。月曜が祝日の場合は開館し、次の平日が休館

 

●糸島市立志摩歴史資料館

新町支遺跡の支石墓の模型が展示されている。支石墓の構造がよくわかる。

 糸島市の北部、玄界灘に突き出した半島部である志摩地域は、古くから大陸との交流が盛んに行われてきた。いつの時代もキーワードは「海」。海に関係の深い遺物を住居、生活、交易、信仰などさまざまなテーマに沿って、魅力的な展示を行っている。新町支石墓群(国指定史跡)から出土したから出土した土器も展示。
DATA
住所・福岡県糸島市志摩初一番地 電話・092-327-4422 開館時間・10:00〜17:00
入館料・大人220円 高校生110円 小中学生、65歳以上は無料
休館日・毎週月曜日、年末年始。月曜が祝日の場合は開館し、次の平日が休館

◆写真提供/那珂川市教育委員会、伊都国歴史博物館、糸島市立志摩歴史資料館
◆協力・株式会社国際交流サービス

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郡 麻江(こおり まえ)

こおり まえ

ライター、添乗員

古墳を愛するライター、時々、添乗員。京都在住。得意な伝統工芸関係の取材を中心に、「京都の人、モノ、コト」を主体とする仕事を続けながら、2018年、ライフワークと言えるテーマ「古墳」に出会う。同年、百舌鳥古市古墳群(2019年世界遺産登録)の古墳ガイドブック『ザ・古墳群 百舌鳥と古市89基』(140B)を、翌2019年、『都心から行ける日帰り古墳 関東1都6県の古墳と古墳群102』(ワニブックス)を取材・執筆。古墳や古代遺跡をテーマに、各地の古墳の取材活動を続ける。その縁で、世界遺産や古代遺産を中心にツアーを企画催行する株式会社国際交流サービスにて、古墳オタクとして古墳や古代遺跡を巡るツアーなどの添乗の仕事もスタートしている。

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