分断から融和に向かうのは可能なのか? 「わかり合う」を目標にしてはいけない理由【大竹稽】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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分断から融和に向かうのは可能なのか? 「わかり合う」を目標にしてはいけない理由【大竹稽】

「なぜカルトにハマるのか?」〜分断から融和へII〜【第5回】

■いかに分断から融和へ進むか

 

 さて、すでに多くの人が宗教や疫病による分断を認めています。世界の命運が賭けられた課題ともいえるでしょう。問題は、「いかに分断から融和へ進むか」。解決の一つの端緒として、「コミュニケーション」が提示されています。より具体的には、「言語や思想の違う人たちとのコミュニケーション」になるでしょう。

 モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』を読まれた方もおられるでしょう。ブランショは二十世紀を代表する作家です。「書くこと」と「死」に挑み続けた思想家でもあります。この作品は、一つの罠を露わにします。引用してみましょう。

 

 「体験は、本質的に他人に向けてのものである。体験がコミュニケーション可能なのは、体験がその本質において外部への開口であり他人への開口であり。自己と他者との間の非対称性、つまりコミュニケーションを誘発する運動であることにかかっている。体験とコミュニケーションは同時的なものである」

 

 コミュニケーションといえば、わたしたちは「言葉によるコミュニケーション」を想定するでしょう。言葉は「わかる」か「わからない」かで、わたしたちを分断します。しかし、コミュニケーションには、言葉によらないものもあるはずです。これはどのようなコミュニケーションでしょうか。

 「他者と自己は常に非対称的」とブランショは断言しています。換言すれば、わかり合うことは決定的に不可能であるということです。しかし、これは絶望ではなく希望の始まりなのです。

 またまた逆説的になりますが、他人がわからないからこそ、コミュニケーションが成立するのです。ブランショが想定するコミュニケーションは、情報伝達とは全く別物です。言葉よってではなく、ただ体験によって交わり感じ合うコミュニケーション。これこそ、「言語や思想の違う人たちとどのようにコミュニケーションをするのか?」への答えになるでしょう。

 『明かしえぬ共同体』の翻訳者である西谷修先生は訳註で、「発信者、受信者、メッセージという三項によって構成される言語的コミュニケーションの構造を崩壊させて生ずる、存在の生な通い合いそれ自体としてのコミュニケーション」と説明しています。

 ここからはわたしなりの換骨奪胎です。

 言葉は、それを使う者たちを結びつけます。しかし、その言葉が「わからない」者たちを排除する働きもします。隠語や流行語は好例でしょう。仲間だけ通用する言葉を作り、他者の理解を阻むことで、グループをより強固にすることができます。言葉は「わかる」と常にセットなのです。こうして「わかる」人たちはグループに帰属していきます。

 しかし、融和は帰属ではありません。

 わたしたちは様々なものに帰属しています。会社に学校にクラブにサークル。そして、国家に宗教。確かに、帰属はわたしたちを安心させます。同時に、帰属は保守と排他へと不可避的に滑り落ちます。このような帰属意識が、ブランショが生きた二十世紀に二つの大きな「イズム」を生み出しました。コミュニズムとファシズムです。国家規模の帰属者を生み出し、時代を席巻した二つの「イズム」の結末は、改めて確認する必要はないでしょう。

 融和のためには、言葉によるコミュニケーションではなく、別の形のコミュニケーションを支点にしなければなりません。一旦、「言語的コミュニケーションの構造を崩壊」させて、コミュニケーションをリバイバルさせなければなりません。

 でも、これはそれほど壮大な企てではありません。しかもすでに多くの人が、この問題を共有しているはずです。

 口が達者な人、理屈で正しさを主張する人、いませんか? 彼らはコミュニケーションがド下手ですよね。誰も耳を貸さなくなるのがオチ。コミュニケーション上手は、「わからない」を尊重できる人なのです。安易に理解もしません。わかったふりなど、もってのほか。理解ではなく、彼らは共感―身体的な反応―をしているのです。

 共感には、背景となる体験が不可欠です。コミュニケーション上手たちは、語彙数や扱う言語が豊かなのではなく、体験が豊かなのです。常に他者へと開かれているものは、言語ではなく体験なのですね。

 ここでもやはり、ブランショの思索は、最終的に「死」に至ります。

 

 「コミュニケーションの基盤は必ずしもことばではない。それは、おのれを死にさらすこと、それも自分自身の死にではなく、いかなる喪の営みも和らげることのできない耐え難い不在であるような他人の死におのれをさらすことである」

 

 体験の中でも、もっとも人間的で生々しい体験が死です。脳は「わかる」「わかる」を連鎖させ、不死を描きます。しかし、身体は死に向かって正しく生きていますよね。「なぜ死ぬのか?」に対して、生物学的な知見から答えることもできるでしょう。しかしそれは、「耐え難い不在であるような他人の死」への答えにはなりません。結局は、「なぜ死ぬのか?」には、「わからない」としか答えられないのです。こうして残るのは、理解ではなく体験なのです。

 「わかり合えない人たちとどうすればわかり合えるか?」 あなたはどう答えるでしょうか。「わかり合う」を目標にする限りわかり合えません。どれほど言葉を駆使しても「わかり合うことはできない」 ここから初めてみませんか。融和とは、「わかり合う」ことではありませんよね。

 

文:大竹稽

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大竹稽

おおたけ けい

教育者、哲学者

株式会社禅鯤館 代表取締役
産経子供ニュース編集顧問

 

1970年愛知県生まれ。1989年名古屋大学医学部入学・退学。1990年慶應義塾大学医学部入学・退学。1991年には東京大学理科三類に入学するも、医学に疑問を感じ退学。2007年学習院大学フランス語圏文化学科入学・首席卒業。その後、私塾を始める。現場で授かった問題を練磨するために、再び東大に入学し、2011年東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修士課程入学・修士課程修了(学術修士)。その後、博士後期課程入学・中退。博士課程退学後はフランス思想を研究しながら、禅の実践を始め、共生問題と死の問題に挑んでいる。

 

専門はサルトル、ガブリエル・マルセルら実存の思想家、モンテーニュやパスカルらのモラリスト。2015年に東京港区三田の龍源寺で「てらてつ(お寺で哲学する)」を開始。現在は、てらてつ活動を全国に展開している。小学生からお年寄りまで老若男女が一堂に会して、肩書き不問の対話ができる場として好評を博している。著書に『哲学者に学ぶ、問題解決のための視点のカタログ』(共著:中央経済社)、『60分でわかるカミュのペスト』(あさ出版)、『自分で考える力を育てる10歳からのこども哲学 ツッコミ!日本むかし話(自由国民社)など。編訳書に『超訳モンテーニュ 中庸の教え』『賢者の智慧の書』(ともにディスカヴァー・トゥエンティワン)など。僧侶と共同で作った本として『つながる仏教』(ポプラ社)、『めんどうな心が楽になる』(牧野出版)など。哲学の活動は、三田や鎌倉での哲学教室(てらてつ)、教育者としての活動は学習塾(思考塾)や、三田や鎌倉での作文教室(作文堂)。

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