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中東の戦車戦を制したダビデの「鞭」

ダビデの星の戦車たち③~中東の小国イスラエルを支える地上戦の要~

■中東の戦車戦を制したダビデの「鞭」

撃破されたイスラエル軍のセンチュリオン。車体前部左側面の破孔は、どうやら内部爆発により拡張されているようだ。この損傷から判断して操縦手は被弾時に戦死した可能性が高い。

 イスラエルの仇敵であるエジプトやシリアはソ連に接近し、第二次大戦中に生産されたT34/85やSU100を筆頭に、戦後開発のT54/55や、当時最新鋭だったT62の供給まで受けて部隊に配備。また、西欧諸国との関係が良好だったヨルダンは、アメリカからパットン(M47とM48)を購入した。
 これらに対して、イスラエルのシャーマンM1やスーパーシャーマンM50は、かろうじて戦車兵の練度の高さにより優位を維持してものの、性能面では既に限界に近かった。当時、同国はイギリスの戦車開発に協力することで新型戦車(のちのチーフテン)を導入する予定であり、それまでの繋ぎとしてイギリスからセンチュリオンの供給を受けていた。ところがこの案が反故にされたため、イスラエルはイギリスやオランダが中古兵器市場に放出したセンチュリオンを買い集めた。

 しかしいざ実戦に投入してみると、センチュリオンはヨーロッパ戦域での運用に主眼を置いて造られていたため、中東の砂漠には適さない点が多々判明した。最大の問題となったのは20ポンド砲で、視界が開けた砂漠では、遠距離での砲戦における高い命中精度が必須だったが、同砲は射距離が伸びると急速に砲弾散布界が広くなり、命中精度が著しく低下してしまうというクセがあった。
 また、ブレーキやトランスミッションも、起伏に富んだ砂漠地形のせいで焼き付きを起こしやすかった。エンジンのロールスロイス・ミーティアは、かのスピットファイア戦闘機にも架装されたマーリンの陸上型だったが、ガソリン・エンジンのため被弾時に火災を起こしやすいうえ、砂塵でフィルターが詰まるなどしてオーバーヒートもしばしば生じた。これらの問題点のせいで、イスラエル戦車兵たちはセンチュリオンを「気分屋」の渾名で呼んで嫌い、旧式ながら信頼性が高いシャーマンM1やスーパーシャーマンM50、アイシャーマンM51に乗りたがったという。

 そこでイスラエル地上軍はこれらの問題点を解決すべく、のちに同国ならではのコンセプトに基づくMBT(主力戦車)メルカバを開発することになるイスラエル・タル将軍の主導で、センチュリオンを改造することにした。
その改造のポイントは、次のごとくである。
 まず20ポンド砲だが、これはイギリスのヴィッカース社が開発した105mm戦車砲L7に換装することで、威力と遠距離での命中精度の向上が図られた。また、トラブルが多かったミーティアは、アメリカ製のM48A3パットンに用いられていたテレダイン・コンチネンタルAVDS-1790-2A空冷ディーゼルエンジンに換装された。
 この他にも補助装甲板の増設やFCS(射統装置)の近代化などが逐次施され、交戦する度にアラブ側のソ連製戦車を凌駕する高性能を発揮した。
 なお、イスラエル地上軍は改造済みばかりでなく未改造のセンチュリオンもショットと称し、改造の程度によってショット・カル・アレフ、ショット・カル・ベータ、ショット・カル・ギメルなどと呼んだ。ちなみに、ショットとは「鞭」または「天罰」のことである。またイスラエルで改造されたセンチュリオンは、時に同国の初代首相ベングリオンの名で呼ばれることもあるが、これは西側の研究者らが便宜的に付けた愛称にすぎない。

KEYWORDS:

『歴史人 2020年4月号』

 

 

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白石 光

しらいし ひかる

戦史研究家。1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。


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