前回でちっぽけな日野城に籠城し明智軍に備えた蒲生家は度胸がある、という話をしましたが、当時の日野城は、今より大規模なものではありました。その遺構は南の日野川のダムの下に沈んでいますが、それでも強大な防御力を誇るというほどのものではなく、明智軍が全力で攻めればあっさりと陥落せざるを得ないだろうことは明らかだったのです。 

 籠城の決断は氏郷さんではなくそのお父さん、蒲生賢秀によるものでした。信長に命じられて安土城二の丸の留守居をしていた賢秀は本能寺の変勃発を知ると「信長様の側室方やお子様たちをまず日野の谷まで避難させようと決めると、日野城へ使者を飛ばして氏郷に牛馬や人足を連れて安土の手前の腰越まで来るよう指示しました。日野谷というのは、綿向山などに囲まれ東西に延びる谷あいの町、日野のことです。

 この際、信長の女房衆は「明智軍に略奪されるぐらいなら天主に蓄えられている金銀・太刀・刀を持ちだし、天主には火をかけましょう」と言うのに対し賢秀は「信長公が何年もかけてあれこれ深く考えをめぐらされ、金銀をちりばめて造られた天下無双の御屋形を空しく焼き払ってしまうのはもったいない話だ」として承知せず、城と財宝をそのままにして日野に引き揚げたのです。

 このエピソードでも分かるように賢秀は名分を重んじ自分の考えを曲げない人物で、「頑愚」(『老人雑話』)とさえ評されました。しかし、彼が頑固だったおかげで近江国では光秀に与する者が多かったにも関わらず山岡景隆が甲賀土山の山中城に籠もって抵抗を続け羽柴秀吉に情報を連絡し続けるなどし、光秀は警戒のため安土城に明智秀満以下の将兵精鋭1000を残す必要が生じ秀吉との決戦に不十分な態勢で臨まなければならなくなったわけですから。

 というわけで、そんな頑固者・蒲生賢秀さんのお墓があるのが、日野城とはメインストリート「日野商人街道」を挟んだ向かい側にある法雲寺さん。

 

 境内に入ると、左側にその墓石が建てられています。

 

 写真右側の墓碑の主、「市橋利政」という人物は江戸中期の仁正寺藩の関係者ですから、本ブログの対象外です。その先祖は斎藤道三・義龍父子や織田信長に仕えた美濃の市橋長利。信長配下の美濃衆のうちでも重要な位置を占めていました。

 さて、肝心の賢秀墓ですが、市橋さんの位牌型石碑タイプとは違い、時代相応の五輪塔です。市橋さんのお墓より一段高いですが、これは賢秀さんの身分が利政さんより上だということを表しているのでしょう。利政さんの通称は右近。彼は市橋家の養嗣子となったものの後に廃嫡され実家の部屋住みで終わっているので、おそらく僭称と思われ官位は持たなかったのに対し賢秀さんは右兵衛大夫・左兵衛大夫・左京権大夫という官職を称しました。こちらもなんだか変な職名ではありますが、福島正則の「左衛門大夫」同様、当時はこういう名称も使われたのでしょう。正五位下の位を持つ賢秀さんの方が高い位置でお眠りになられる、というわけです。

 ですが、上手が右という常識から言うとふたりの並びがおかしい気もします。まぁキリが無いのでそのあたりはスルーで(笑)。