■オリジナル・バレエ 惹き込まれる映像美

『飛鳥 ASUKA』は牧阿佐美バレヱ団誕生直後に生まれ、 改訂に改訂を加えられた「世界に通用する日本の全幕バ レエ」。創立60周年の記念公演の演目に選ばれた。牧阿佐美バレヱ団『飛鳥 ASUKA』(撮影:鹿摩隆司)

 

 2019年は、日本のバレエにとって大きな区切りとなる年である。1 0 0年前の1919年、ひと筋の本格的なバレエレッスンの光が鎌倉の地で灯された。その流れからこの国のバレエは育まれ、現在では世界有数のバレエ大国として知られるまでに発展した。

 水準の高いバレエ技術をはじめ、バレエ人口、バレエ団体やその公演回数、観客数など、どれをとっても、多くの日本人がバレエを愛していることが分かる。象徴的なのは、日本オリジナルの作品がヨーロッパ生まれの古典作品と並んで親しまれ、大切にされているということである。

 

「日本独自の作品を大事に育てているバレエ団もあります」
 教えてくれたのは、バレエ研究家で跡見学園女子大学准教授の川島京子さんだ。

 
バレエ研究家/川島京子さん
跡見学園女子大学准教授。
専攻は舞踊学、バレエ史。
早稲田大学・同大学院に学び、歴史・文化面に広がるバレエの芸術性を研究。

「たとえば、牧阿佐美バレヱ団の『飛鳥 ASUKA』の原案は1957年生まれ。雅楽によるバレエとして誕生し、いまやプロジェクションマッピングなどの最新技術を駆使したグランドバレエになりました」

 同作は、飛鳥時代を舞台に、竜神に身を捧げた乙女の悲しい恋の物語。目を見張るような密度の濃い複雑なステップのなかに、日本人の身体性が見事に織り込まれている。そのステージは、バレエが紛れもなく日本に根付いたアートであることの証明となった。

 

■日本のバレエを育てたエリアナ・パヴロバ

世界のバレエ界をリードするロシア・サンクトペテルブルグのマリイン スキー劇場。チャイコフスキーの三大バレエ誕生などにも大きく関わる。

 

 バレエの代表として、誰もが思い浮かべるチャイコフスキーの3大バレエ。これは19世紀の後半にロシアで完成した様式だ。しかし、バレエの歴史はその国から始まったわけではない。

「15世紀のルネサンス期に、イタリア貴族の宴会で踊られた余興のダンスがバレエの起源でした」

 その後、流行はフランスの宮廷へ移り、19世紀前半には『ラ・シルフィード』『ジゼル』といったロマンティック・バレエが登場する。

「そして19世紀後半にバレエの中心はロシアに移り、クラシック・バレエ時代が花開きます。しかし1917年に勃発したロシア革命を逃れるため、たくさんの舞踊家たちが亡命して、世界中にバレエを広めたのです」

 約1世紀前、大正時代の日本には、亡命してきたロシア人が幾人もいた。

「日本バレエの母」と呼ばれるエリアナ・パヴロバも、そうしたひとりだ。しかし彼女は、他のロシア人ダンサーとは違った。一時的な亡命先としてではなく、この国に定住することを選んで、日本初のバレエ学校「パヴロバ・バレエスクール」を設立したのだった。

「日本バレエの母」エリアナ・パヴロバ

「鎌倉の海岸にモダンで瀟洒な自宅兼スタジオを建て、多くの弟子たちを集めました。全国から集まった入門者たちは、内弟子のような形でエリアナと寝食を共にしながらバレエを身につけ、次々と独立し巣立っていったのです」

 後の日本バレエ界を支える舞踊家たちの多くがエリアナに学び、そこからさらに孫弟子、ひ孫弟子へとバレエは伝わっていく。そんな歴史の最初の一歩となったのが1919年、いまから100年前だったのである。

鎌倉七里ガ浜に日本で初めてのバレエ学校を開く

「エリアナは母、妹とともに、1 9 37年に帰化して日本人に。そして1 941年には、日中戦争の前線慰問を決意して、周囲の反対を押し切るように戦地へ旅立ちます。でもその2カ月後、過酷なスケジュールもあって病に倒れ、南京で帰らぬ人となってしまったのです」

 生前、エリアナが日本で上演した作品は300以上、慰問出発前の最後の公演では、名作『白鳥の湖』を一幕仕立てで演じた。

エリアナ・パヴロバの『瀕死の白鳥』