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「開発途上国のモデルケース」という名の裏に隠されたフィリピンの水道格差

日本の水が危ない⑯

ここ日本でも課題とされている「水道事業への民間参入」。先立って、導入している国々のなかでも、そのスタイルは国ごとに違いがあり、それによって「水道民営化」の評価も分かれてくる。今回はフィリピンの「水道民営化」の事例を紹介する。(『日本の「水」が危ない』六辻彰二 著より

■フィリピン──「成功」の陰で

 「水道民営化」は先進国だけでなく開発途上国でも広がってきた。ただし、それはすべての国でというより、主に先進国と外交的に近い関係の国ほど目立つ。こういった国ほど、1980年代から先進国で台頭した新自由主義的な改革の波の影響を受けやすかったのである。

 しかし、多くの場合、開発途上国での「水道民営化」は、先進国でのものより問題を引き起こしやすかった。その理由を一言でいえば、これらの国ではもともと先進国と比べて政府の能力が乏しく、おまけに水メジャーが本国でより傍若無人に振る舞うことが多いからだ。

 ここでは、特に問題の目立つ国の事例として、新自由主義の台頭以降、最も早い段階で水道事業への民間参入を始めた、東南アジアのフィリピンを取り上げる。冷戦時代、アジア最大の米軍基地が置かれていたことからもわかるように、フィリピンは伝統的にアメリカの影響が強く、1980年代から世界銀行などが融資の前提条件として市場経済化を求め始めたとき、これを受け入れやすい土壌があった。その結果、この国の首都マニラでは1997年、コンセッション方式に基づき首都上下水道局の経営が民間企業に委託され、今日に至っている。これは現在進行形の「水道民営化」のうち最長のプロジェクトの一つだ。

 コンセッション方式の導入にともない、マニラの水道は東西に分割され、それぞれがマニラ・ウォーターとメイニラッド・ウォーターに委託された。このうち、東部を担当するマニラ・ウォーターはフィリピンの建設大手アヤラの他、イギリスのユナイテッド・ユーティリティ、アメリカのベクテル、そして三菱商事などの企業連合で、西部を担当するメイニラッド・ウォーターは放送、エネルギー、不動産開発などを手掛けるフィリピンの複合企業ベンプレス・ホールディングスと水メジャーの一角スエズなどが参加する企業連合である。

 こうした海外企業による経営のもと、世界銀行によると、例えば東部ではコンセッション方式が導入された1997年には26%に過ぎなかった24時間水道を利用できる住民の割合が、2006年には99%に至った。それと並行して、この地域では1997年から2008年までの間に下痢発生の割合が51%下落するなど衛生環境が改善した一方、漏水率は1997年の63%から2011年には11・2%にまで下落した。

 こうした成果を踏まえて、このプロジェクトを主導した世界銀行はしばしば、マニラでの「水道民営化」を「開発途上国における安全な水の普及のモデルケース」と宣伝する。

 ただし、その「成功」は危ういものでもある。マニラでは水道料金が右肩上がりで伸び続けており、フィリピンのNGOフリーダム・フロム・デット・コアリションは、東西の区画のいずれの水道料金も、1997年から2008年までに1000%以上高騰したと推計している。この間、フィリピンで物価が全体的に上昇したことは確かだが、それでも水道料金の上昇率はインフレ率を上回るだけでなく、パリなど先進国でのものをもしのぐ。

 水道料金の高騰は、世界銀行のいう「水道普及の成果」にも疑問を呼んでいる。水道料金が高すぎて、水道が普及しても、それを利用できない人々が続出したからである。

 公営の時代、マニラの貧困層の間では水道管から勝手に給水するといった行為も珍しくなかったが、コンセッション方式の導入後、民間事業者はこれを厳しく取り締まり、さらに水道料金が支払えない場合、基本的に給水は停止された。その意味で、民間事業者は確かに効率的に経営してきたといえるが、同時に所得格差による水へのアクセスの格差が深刻化したことも疑いない。つまり、貧困層は水道をほとんど利用していないのだ。

 その結果、貧困層が多い地域では路上で水を売る「水屋」が繁盛し、ボトル詰めの水も販路を拡大させた。こうした状況を指して、アメリカのNGOコーポレート・アカウンタビリティ・インターナショナルは、世界銀行の「成功」が「高い水に採算の合う範囲内のもの」と指摘している。

 これほど水道料金が高騰した背景には、先進国より発言力の弱い開発途上国の立場がある。先述のように、もともとフィリピンはアメリカに安全保障、経済の両面で依存していたため、いわゆるワシントン・コンセンサスが推し進める「水道民営化」に抵抗しにくい立場にあった。この立場の弱さは当局と水道事業者の間の交渉にも影響してきた。

 例えば、1997年のアジア通貨危機の後、フィリピン経済が停滞するなか、2001年3月にメイニラッド・ウォーターはコンセッション契約に基づく使用料の支払いを中止し、併せて首都上下水道局に対して、通貨ペソの下落分とインフレ分を補完する追加料金を徴収できるよう、契約の変更を迫った。

 ここで注意すべきは、もとの契約のなかで、通貨下落の場合には調整した金額で水道料金を徴収することがすでに定められていたことだ。つまり、メイニラッド・ウォーターの要求は、どさくさに紛れて「二重取り」を求めるものだったが、結局フィリピン当局は2002年末までという期限付きでその徴収を認めざるを得なかった。ところが、メイニラッド・ウォーターは期限を過ぎても二重取りを続け、フィリピン当局からの中止命令を無視した。同社の二重取りは国際仲裁裁判所の命令でようやく止まったが、利用者はその間、通常より高い水道料金の支払いを求められ続けたのである。

 フィリピンでは水道の再公営化が一件も発生していない。しかし、それは海外企業やその背後にいる先進国に対するフィリピンの発言力の弱さに鑑みれば不思議ではなく、「再公営化がないから問題もない」とはいえない。世界銀行のいう「成功」は、その上に成り立っているのである。

KEYWORDS:

『日本の「水」が危ない』
著者:六辻彰二

 

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 昨年12月に水道事業を民営化する「水道法改正案」が成立した。
 ところが、すでに、世界各国では水道事業を民営化し、水道水が安全に飲めなくなったり、水道料金の高騰が問題になり、再び公営化に戻す潮流となっているのも事実。

 なのになぜ、逆流する法改正が行われるのか。
 水道事業民営化後に起こった世界各国の事例から、日本が水道法改正する真意、さらにその後、待ち受ける日本の水に起こることをシミュレート。

 

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六辻彰二

むつじしょうじ

国際政治学者

1972年生まれ。博士(国際関係)。国際政治、アフリカ研究を中心に、学問領域横断的な研究を展開。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。著書、共著の他に論文多数。政治哲学を扱ったファンタジー小説『佐門准教授と12人の政治哲学者―ソロモンの悪魔が仕組んだ政治哲学ゼミ』(iOS向けアプリ/Kindle)で新境地を開拓。Yahoo! ニュース「個人」オーサー。NEWSWEEK日本版コラムニスト。


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