幕末の剣客集団としてのイメージが強い「新選組」。実は早い段階から洋式訓練を採用した“洋式軍隊”であったという。(『明治維新に不都合な「新選組」の真実』吉岡孝 著より

■月に12回も行われていた洋式調練

高幡不動尊に立つ土方歳三像

 新選組を洋式軍隊という視点から幕末史に位置づけようとしたのは、大石学である。大石は新選組が洋式軍備化を志向し「鳥羽・伏見の戦い」でも小銃を装備していることなどを指摘した。

 では、新選組の洋式調練は、いつから確認できるのか。元治元年(1864)5月27日、禁裏守衛総督(きんりしゅえいそうとく)に就任したばかりの一橋(徳川)慶喜は、洛中において洋式調練を行うことの許可を朝廷に申請している。つまり、これ以前に新選組が、洋式調練を行っていた可能性は低い。

 新選組で洋式調練が確認されるのは、同年10月9日の土方歳三書状である。この書状には年月が記されていないが、元治元年と推定して間違いない。

 この書状には、「一局一同炮術ちふれん不残西洋ツ〵(筒)致候」と、新選組が局を挙げて西洋筒(鉄砲)の調練に励んでいることが記されている。

 土方は、「長門魁(ながとさきがけ)」(長州征討の先鋒)も勤めたいと書いている。しかし、新選組の洋式調練が、それほど充実したものであったとは信じられない。これは、土方一流のジョークであろう。しかし、実際、調練が行われていなければ、ジョークとしてさえ成立しないので、この時期には洋式調練は開始されていたのであろう。

 同年7月19日に起こった禁門(きんもん)の変に出動した新選組には、洋式調練の影響は感じられない。おそらく洋式調練は、禁門の変後に開始されたのであろう。

 新選組は結成から慶応元年(1865)3月までの2年間、京都市中の壬生(みぶ)に屯所を置いたが、ほど近くにある壬生寺には、新選組が洋式調練をしたことを示す史料が残されている。このため、壬生寺で新選組が洋式調練を行っていたことは事実であろう。

 慶応元年3月、新選組を直接管轄する会津藩公用方(あいづはんこうようかた)の手代木直右衛門(てしろぎなおえもん)は、新選組では「毎月一・六・三・八」の日に「大小銃(だいしょうじゅう)」の稽古をするので、「硝石百斤、鉛なまり拾貫目つゝ」を 毎月渡してほしいという「願ねがい」を提出している(多聞櫓文書27408)。

 ここから新選組の洋式調練は、この時点で月12回行われていたことが判明する。「大小銃」とは、幕末期はまだ銃と砲との区別が曖昧なため、このような表現が使用されたのである。会津藩でも「大銃頭(だいじゅうがしら)」という役職が存在したように、当時は珍しい表現ではない。

「硝石」は火薬の原料で、「鉛」は銃弾の原料である。手代木の願は、まず京都所司代・松平定敬(まつだいらさだあき)<桑名藩主>に提出された。そして桑名藩はこの願書を、幕閣に提出している(多聞櫓文書27406)。

 会津藩は、ゲベール銃(洋式銃)50挺を希望していたが、幕府には備えがないということで、五匁玉(ごもんめだま)銃30挺を与えられた。この五匁玉銃は、「和銃」と考えられる。