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佐賀藩が築造した伊王島の台場群、その歴史的意味を考える

外川淳の「城の搦め手」第61回

 先日、長崎伊王島の台場群を探査した。台場を探査するさい、当時の図面があれば、現状との比較が容易になり、遺構を見落とす危険も低くなる。最も有名な品川台場については、多数の図面が残されているのに対し、全国の台場については、まちまちであり、公刊されず、撮影さえされていない図面も数多い。台場の図面集の公刊については、自身の課題であるとともに、多数の図面が埋もれていることは、残念ながら自治体の無関心や怠慢によるとことが大きい。

伊王島行きの高速船より魚見岳台場を望む
伊王島は架橋によって九州本土と結ばれたものの、長崎市の中心部からのバスの便は少なく、長崎港からの高速船を利用して伊王島を訪れた。高速船からは、長崎台場群の象徴的存在である魚見岳台場が一望できる。

  伊王島には、佐賀藩が4カ所の台場を築造。その現状を紹介しながら、その歴史的意味合いを考えてみたい。

1真鼻台場
 伊王島灯台よりも島の突端に位置。伊王島町(現在は長崎市に吸収合併)設置の史跡標柱が立つ。灯台の建設にともない、石垣の石材が転用されるものの、一部の石垣が残されており、図面との比較により、往時の形状が推測できる状態にある。

展望台より望む真鼻台場の現状
①②④=石垣が部分的に残されるポイント
③=行政設置の史跡標柱が立つポイント
⑤=台場の石垣が転用された灯台の基部

 

ポイント④に伝わる真鼻台場の石垣の一部
往時の図面と比較すると、台場の石垣の一部であることが読み解ける。

 残りの3つ台場の現状と、伊王島台場群の総評については、次回後編で紹介したい。

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外川 淳

とがわ じゅん

1963年、神奈川県生まれ。早稲田大学日本史学科卒。歴史雑誌の編集者を経て、現在、歴史アナリスト。



戦国時代から幕末維新まで、軍事史を得意分野とする。



著書『秀吉 戦国城盗り物語』『しぶとい戦国武将伝』『完全制覇 戦国合戦史』『早分かり戦国史』など。



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