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信長・秀吉・家康・政宗・清正 戦国武将が地名に託した思いとは?

【地名の謎と歴史】戦国武将が 名付けた地名


激動の戦国時代、武将たちはどんな思いを地名に託したのか?
現代の都市のなかには、戦国武将によって名付けられた名称がいまも残る。
全国各地をめぐりながら、その地名にこめられた武将たちの思いを探っていこう。(47都道府県 地名の謎と歴史)


■織田信長 岐阜(岐阜県)
 中国・周の故事にならって3つの候補から選ばれる

織田信長像:JR岐阜駅前にある黄金の像は、市政120周年を記念して建立。

 織田氏のルーツは越前(現在の福井県)にある。かつてこの地で守護の斯波氏に仕えていたが、応永7年(1400)頃、斯波氏が尾張(現在の愛知県西部)の守護を兼ねるようになると、これに同行して尾張に移ってきた。信長の時代に
は尾張を支配下に置き、続いて美濃(現在の岐阜県)の斎藤氏を攻める。斎藤氏の居城である稲葉山城は井ノ口城とも呼ばれ、信長の義父にあたる斎藤道三により整備された。永禄10年(1567)、信長はこれを攻略すると、天下平定に向けて城名を変え、人心を一新する目的から、禅僧の沢彦宗恩に改名を相談する。これに対して沢彦は「岐山」「岐陽」「岐阜」の3つを提案したところ、信長は「岐阜」の城名を選んだことから、その城下の地名も「岐阜」に改められた。

金華山:旧名稲葉山。山頂には岐阜城の模擬天守、麓には信長居館跡がある。

 

■豊臣秀吉 長浜(滋賀県)
「長く」続く願いなのか 信長の名の「長」が由来か

秀吉と三成の像:JR長浜駅前にある像は、観音寺での出会いを表現。

 天正元年(1573)、明智光秀に次いで一城の主となった羽柴秀吉は、はじめ小谷城を与えられたが、のちに「今浜」に城を築く。このとき秀吉が地名を「長浜」に改めた理由としては、城主としての身分が「長く」続いてほしいと願ったという説が知られる。しかし、当時、織田信長には、琵琶湖の周囲に城を築くことで都の東側を支配する構想があったことから、その意向をくんだ秀吉が信長の「長」の字を地名に取り入れたとも考えられる。

長浜城:長浜城跡には天守を模した博物館がある。

 

■徳川家康 浜松(静岡県)
  浜の「津」から縁起のいい「松」に転訛か

徳川家康像:浜松城の本丸跡に立てられた若き日の家康像。

 遠江(現在の静岡県西部)を平定すべく曳馬城に移った徳川家康は、すぐに現在の浜松城の地に新しい城を築く。このとき「曳馬」の地名が「浜松」に改められたが、その理由は、当地が古来、海に近い湊、つまり「津」だったことから、
これが縁起のいい「松」に転訛したと考えられる。また、家康は浜松城で天下統一のための力を蓄え、2代将軍の秀忠が生誕したほか、江戸時代には幕府の要職に就く城主も多かったことから「出世城」ともいわれる。

浜松城:模擬天守を支える野面積みの石垣は創建当時のもの。

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谷川 彰英

たにかわ あきひで

筑波大名誉教授

1945年長野県生まれ。ノンフィクション作家。東京教育大学(現・筑波大学)、同大学院博士課程修了。柳田国男研究で博士(教育学)の学位を取得。筑波大学教授、理事・副学長を歴任するも、退職と同時にノンフィクション作家に転身し、第二の人生を歩む。筑波大学名誉教授。日本地名研究所元所長。主な作品に、『京都 地名の由来を歩く』シリーズ(ベスト新書)(他に、江戸・東京、奈良、名古屋、信州編)、 『大阪「駅名」の謎』シリーズ(祥伝社黄金文庫)(他に、京都奈良、東京編)『戦国武将はなぜ その「地名」をつけたのか?』 (朝日新書)などがある。

 

 

 

 

 

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