壬申の乱を制して絶大な権力を手にした天武

 もともと天武は兄の天智に較べれば即位資格が十分にあったわけではなかった。だが、この内乱を制して即位したことによって、それまでの天皇(正確には治天下の王)を越えた絶大な力を得ることになった。それは、天武が内乱のさなか、全権を長子の高市皇子に委譲、戦いを天智後継の座をめぐる高市と大友の戦いに転換したことによってもたらされたといってよい。
 天武軍が内乱に大勝した結果、天武はいわば天智後継と決まった高市の上位にあって、彼に指令を発する立場を得た。これにより天武はかつての治天下の王を越える地位と権力を掌中にすることになった。その地位を従来とは異なり、新たに天皇と呼ぶようになったのではないかと考えることができよう。

 天武は再び都を倭京に戻すと、飛鳥浄御原宮(正式な命名は後年、天武崩御の直前)を造営した。天武の在位中には、その絶大な権力を背景に、中国にならい律令法の編纂が本格的に開始され、我が国にいまだかつてない律令法にもとづく中央集権体制の骨格が造られていった。また、天武は従来の倭京を土台にしながらも、中国的な都城の建設にも着手している。
 律令が完成を見るのは天武の孫の文武天皇の時代であったが(大宝律令)、中国的な都城は天武のつぎの持統天皇の時代にいわゆる藤原京(正しくは新益京)として完成を迎えるのである。壬申の乱が起きなかったならば、律令と都城を一気に造り出すほどの強大な権力は生まれなかったであろう。その意味で壬申の乱の歴史的意義が大きいことは多言を要さない。