【「壬申の乱」で不利な状況だった大海人皇子が優勢に転じた経緯】 | BEST T!MESコラム

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「壬申の乱」で不利な状況だった大海人皇子が優勢に転じた経緯

古代史上最大の内乱戦争! 大海人皇子VS大友皇子 「壬申の乱」の通説を覆す! 第5回

671年、天智天皇の弟大海人皇子は、突如、出家して吉野に隠棲する。しかしその後、天智の子・大友皇子との間で、天皇の座を巡り戦いが勃発する。いわゆる「壬申の乱」である。

王位継承を巡る古代史最大の内乱戦争は、なぜ起こったのか? 通説を再検討してその真実に迫る! 今回は連載第5回目。

壬申の乱で両軍が睨み合った、瀬田の唐橋(滋賀県大津市)

瀬田橋で大友皇子が陣頭指揮をとるも

かえって敵軍士気があがり裏目に

「壬申紀」によれば、以後の内乱の展開はつぎのとおりである。

 7月2日、美濃国不破評の和ヶ原に集結した天武軍が二手に分かれて進発する。倭古京の増援に向かう軍と、いま一つは大津宮を攻略する軍である。いずれも数万という単位であったとされるが、これは疑わしい。

 同日のこと、大友側の大軍が不破をめざして進んでいたが、それが犬上川において将軍間の内訌によって進軍停止に陥ってしまう。また、同日、大友軍精鋭による天武軍の本営強襲が敢行されたが、これは失敗に終わっている。

 同じ頃、大倭国方面では倭古京を出て北上を開始していた大伴吹負率いる天武軍の別働隊が河内国方面の守備にまわり、高安城の攻略に成功。7月3日頃、この別働隊は河内国方面から押し寄せる大友軍を河内国衛我川で迎え撃つが、あっけなく惨敗を喫した。

 7月4日には吹負自身が山背国方面から南下してきた大友軍と山背・大倭の国境である乃楽山で戦って敗れてしまう。吹負は単身で命からがら敗走を余儀なくされた。だが、直後に倭古京増援のために急行してきた味方と合流し、吹負は命拾いをする。

 その後、7月上旬、大友軍は総力をあげ倭古京の奪回をめざして動き出す。それに対して吹負は当麻葦池のほとりの戦いで河内国方面より襲来する大友軍を撃破、返す刀で大倭国の三道(上つ道、中つ道、下つ道)を南下してきた大友軍を大破し、倭古京を死守することに成功した。これにより天武軍はようやく優勢に転じたのである。

 

 これ以後は、琵琶湖の東岸における両軍の攻防が展開することになる。7月7日、息長横河の戦い。9日、鳥籠山の戦い。13日、安河の浜の戦い。17日、栗太の戦い。いずれも大友軍は天武軍の南下を抑えきれず敗退を重ねた。大友軍は正面の敵のみならず大倭国方面からの脅威にもさらされていたので、全軍が浮き足立ってしまったのであろう。

 そして、ついに7月22日を迎える。瀬田川に架かる瀬田橋を挟んで両軍が対峙、西岸には大友皇子も姿をあらわした。大友軍としてはここを突破されてしまえば大津宮を防衛する術はなくなってしまう。大友は自分が陣頭に立てば敵方に動揺が生じ、その戦意を奪うことができるのではないかと考えたようである。しかし、その思惑は裏目に出てしまい、大友登場はかえって東岸に布陣した天武軍の士気を煽る結果となり、大友軍は敗退した。

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遠山 美都男

とおやま みつお

昭和32年(1957)、東京都生まれ。学習院大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科博士後期課程中退。博士(史学)。著書に『聖徳太子の「謎」』(宝島社)、『日本書紀の虚構と史実』(洋泉社歴史新書y)など多数。


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