稲作は縄文時代に伝わった!? 常識が変わる「末盧国」の遺跡巡り |BEST TiMES(ベストタイムズ)

BEST TiMES(ベストタイムズ) | KKベストセラーズ

稲作は縄文時代に伝わった!? 常識が変わる「末盧国」の遺跡巡り

古代遺跡の旅【第2回】 魏志倭人伝ゆかりの地を巡る。―その②―

●菜畑遺跡(なばたけいせき)〜日本文化の原点、稲作発祥の地〜

 水田稲作はいつどこから伝播したのか。
 私たちは教科書では「弥生時代に大陸から渡ってきて」と習った記憶がある。
が、しかし、ここ末盧国、菜畑遺跡の発掘調査で、その歴史観が見事にひっくり返った。ある地域の発展を考えるとき、稲作文化の伝播、つまり弥生式の文化をうまく取り入れたことは想像しやすい。末盧国も当然、稲作を取り入れて、さらなる発展を遂げたといっていいだろう。
 その時代考証の結果が衝撃的なものだった。
 中国から朝鮮半島を経て伝わった水田稲作がここ、唐津に伝わったのは、なんと通説の100〜200年も古く遡ることになったのだ。弥生時代ではなく、縄文晩期といわれる2500〜2600年前に伝わっていたことが、この菜畑遺跡の調査で判明したのである。そのあたりは、唐津市「末盧館」(まつろかん)のジオラマや出土品の展示を見るとよくわかる。
「2500〜2600年前を弥生時代早期と考える説もあります。また、国立歴史民俗博物館によると、その年代は500年遡るということが発表されていました。これは歴史的大事件ですね」(禰冝田先生)
 まさに! 水田稲作は私たちが思っている以上に早く、日本に伝わり、根付いていったのかもしれない。私たち日本人の食の根幹、その起源もまた、「日本人の祖形」に深く繋がっていくのだ。

唐津市「末盧館」の全景。当時の水田が再現されている。当時は、付近の住宅地のあたりまでずっと水田が続いていたのだという。


当時の集落と水田を再現したジオラマ。ジオラマっていつまでもずっと見ていたくなってしまう。

 資料によると「昭和55〜56年の菜畑遺跡の調査は、日本における稲作の起源と稲の道について画期的なものだった」とある。
 この時の調査で、なんと日本最古の農工具と水田跡が発見されたのだ。
 最古の水田跡は、縄文時代晩期中頃のものと考えられ、海水の入り込まない谷間に水路を掘り、両側に土を盛った畦によって区画されていた。この遺跡がある丘陵地帯には、水田の他、住居跡もあり、米を収穫するための石製の石庖丁や、石の斧、木工具の斧などが出土した。

 さらに、である。遺跡から出土した炭化米を調べると、縄文時代晩期、約2600年前の最も古い米だということがわかった。種類は短粒米のジャポニカ種で、今日、私たちが食べている米の原種だそうだ。町のミュージアム「末盧館」にその実物が展示されているが、現代の私たちの主食である米の原種と思うと、とても感慨深い。どんな味だったのだろう? 食べてみたいものだ。

約2600年前!の当時の人々が食べていた米=私たちの大切な主食の原型。

 そして、同じ縄文時代の晩期の終わりごろの2つの水田跡も確認された。2つとも、以前と同じような特徴があったそうだが、農耕具の種類や数が増えて、農業の技術の進化がわかったそうだ。弥生時代になると、水田跡の水路に矢板を使い、杭を大量に用いた区画整理が大規模に行われるようになったという。米の生産量も格段に増えていたことだろう。

 農業の道具や形態から、日本への稲の道はこんなふうに推測されるらしい。
 まず、最古の稲の遺跡は中国・長江下流域の浙江省河姆渡遺跡(せっこうしょうかぼといせき)や、湖南省彭頭山遺跡(こなんしょうほうとうざんいせき)にあるそうだ。米の種類としては、日本はジャポニカ米のみだが、中国では短粒米のジャポニカ米と長粒米のインディカ米の両方が出土している。河姆渡遺跡では水稲を中心に行い、ブタなども飼育していたらしい。
 日本への伝播経路は、農耕の種類などから、長江下流域から華北、朝鮮半島を経て日本に伝わったというのが、現在のところ、研究者の間では主流の考え方だ。その伝わった最初の足跡が、ここ、菜畑遺跡にあるのかも…? 今まさにその地に立っていると思うとかなりワクワクする。

衝撃的だった展示写真。これは3体のブタの下顎に棒を刺し貫いたもの。稲作の祭りに使われたと考えられている。ブタを飼育していたこともわかるし、この頃から豊穣を祈る習慣があったこともわかる。まさに、出土品は語る、である。

 縄文時代晩期から弥生時代中期にかけて、稲作の伝播があり、人々の暮らしに大きな変化が生まれた。現在確認できる日本最古の水田跡からは、時代と暮らしの変遷を明らかに見ることができる。
 菜畑遺跡の存在意義は、歴史の年代認識を変えたことだけではない。この遺跡のさまざまな調査で、いろいろなことがわかってきた。
 私たちは教科書で、弥生人に縄文人が駆逐されたように学んだが、どうも違うようだ。
 稲作を取り入れつつも、最初から稲作が上手にできたわけではなく、それだけですぐにムラの食糧をまかなうのは無理があった。そのため、それまでの狩猟・採集も同時並行で行われており、狩猟・採集はまだまだ大きな比重を占めていた。ここに縄文文化と弥生文化の相互補完関係があったというのだ。新参の者たちが戦ってその土地を支配するという短絡的なやり方では、その地理や気候風土に即した生活をすぐに築くことは難しい。だから互いに協力しあって、より良い暮らしをつくりあげていったのではないか。大和民族の気質を思うと、黎明期は、そうであってほしいし、筆者などは、むしろその方がしっくりくる。
 土器の変遷がそれに一致していて、稲作が不安定な時期は縄文色が強く、稲作が安定的に行われるようになってくると共に、弥生式土器が定着していったという。祭祀が行われていたことや、ブタを飼育していたことものちの調査で分かり、まさに菜畑遺跡は、日本の農業の原点、始まりの地としての地位を確立した。

現代の水田に比べると区画が小さいが、まさに稲作の原型がここにある。「縄文時代」と「水田」の文字が並ぶのはまさに画期的。常識だった弥生=水田稲作という考えを改めなくてはいけない。

次のページ4世紀前半の大型前方後円墳

KEYWORDS:

オススメ記事

郡 麻江(こおり まえ)

こおり まえ

ライター、添乗員

古墳を愛するライター、時々、添乗員。京都在住。得意な伝統工芸関係の取材を中心に、「京都の人、モノ、コト」を主体とする仕事を続けながら、2018年、ライフワークと言えるテーマ「古墳」に出会う。同年、百舌鳥古市古墳群(2019年世界遺産登録)の古墳ガイドブック『ザ・古墳群 百舌鳥と古市89基』(140B)を、翌2019年、『都心から行ける日帰り古墳 関東1都6県の古墳と古墳群102』(ワニブックス)を取材・執筆。古墳や古代遺跡をテーマに、各地の古墳の取材活動を続ける。その縁で、世界遺産や古代遺産を中心にツアーを企画催行する株式会社国際交流サービスにて、古墳オタクとして古墳や古代遺跡を巡るツアーなどの添乗の仕事もスタートしている。

この著者の記事一覧