五知峠を越える急勾配の旧線
 途中で石神神社の鳥居を目にしたのでくぐって境内へ入った。社殿は見つからないが、昔はあったのか。四阿(あずまや)があったのでありがたく一休みする。携帯してきたチョコレートとお茶で一服。ついでに下へ続く階段を降りて行けば川が流れており、そこから南側を覗くと、国道の橋梁の向こう側に近鉄旧線のガーダー橋が残っていた。その手前には作業員用の通路も蔓草に絡まれながらも健在である。最初のまとまった遺構だ。一服しなければ出会えなかったかもしれない。レールの載っていた鈑桁は枕木も外されているが、錆びはそれほどでもないので、まだ電車が走れそうだ。

写真を拡大 石神神社のすぐ近くに残っていた橋梁のガーダー(鈑桁)。

 国道に戻ると、線路跡が徐々に高度を増してこちらの国道より高くなってきた。廃線を見るには好都合である。平成5年(1993)まで大阪や名古屋から天下の「近鉄特急」が走っていた電化線なので、立派な架線柱の台座も各所に残っていた。しっかりしたコンクリートの台座も劣化は進んでいなさそうで、架線柱を支えたアンカーボルトのねじ山もしっかりしている。

 そのうち徐々に線路の方が下がってきて国道脇を堀割構造で併走するようになると五知峠だ。峠の標高は79メートル、白木駅の約17メートルから62メートル上がってきたことになる。道路と併走する鉄道が当初は道路より上で、そのうち道路より下になる「現象」はどこでも見られるが、これは最急勾配の制限いっぱいの数値を維持するための措置である。道路は勾配がそれ以上急になっても余裕があるので地形に忠実に作れるのだが、線路は勾配を33.3パーミルで平均させるためには最初から一定に上っていく必要があり、最も急な峠の前後のみ切り通しにしたのだろう。これ以上急なら鉄道だけトンネルを採用したに違いない。

写真を拡大 鳥羽市と志摩市を分ける五知峠。線路はこの左側を掘割で通過していた。

 峠を越えると鳥羽市から志摩市に入る。国道167号を示すおにぎり標識の下には「志摩市磯部町五知」の地名。線路の切り通しとの境にはフェンスが張られ、「鉄道用地内へのゴミ不法投棄を禁止します。近畿日本鉄道(株)」の看板もあるのだが、その趣旨に反して堀割内はゴミが散乱していた。炊飯器など確信犯ゴミも混じっていて、伊勢神宮のすぐ裏山でこれは残念である。

 別の標識には志摩スペイン村12.1キロ、伊雑宮(いざわのみや)4.8キロとあったが、上之郷駅のすぐ西側にあるこちらのお宮への足というのも、志摩電気鉄道の敷設目的であった。伊勢神宮内宮の別宮という伊雑宮の「集客力」には相当なものがあったのだろう。廃線に沿って坂道を下ると周囲が開け、五知の集落が見えてきた。道路に近い場所にはコンクリートの柵も残っており、時おりコンクリート製の境界標も見える。頭が朱色に塗られたそれには近鉄の社章が彫り込まれ、電車が走らなくなって四半世紀近いにもかかわらず「鉄道用地」を静かに主張していた。

写真を拡大 近鉄の社章が見える境界標が線路と道路の境界に残っている。
写真を拡大 国道167号と並走する廃線跡。コンクリートの柵はまだ健在。

 五知駅が近づくと複線の立派な現在線が見えてくる。その手前に現われた旧線の橋台は道路を跨ぐもので、コンクリートの擁壁も含めて苔が覆い、その年月を感じさせる。その間に新線を新しい特急が駆け抜けていった。ほどなく着いた五知駅のホームはまだ新しいが、この駅も新線開通に伴って手前の白木方に移設されている。ホームから振り返ると青峰トンネルの大きな複線の坑口が間近だ。かつての五知駅はこの先の、集落から少し離れた場所に設けられたが、これは下り坂が終わっていない区間であったからに違いない。坂道の途中に駅を設置することができないからだろう。現在の駅は10パーミルの途中にあるが、これは停車場構内の上限である(前後は25パーミル)。

写真を拡大 五知駅のすぐ東側、新線と合流する地点付近にかつての跨道橋の橋台があった。

(後編に続く)