「自分開放祭り」としてのコミケ

 古来、日本の「祭り」は、その時だけの「異空間」であり、そこには「神」と「性の開放」があった。
 そこでは罪は許され、その夜だけの関係を結ぶ男女がいて、その「闇の世界」が影で地域を支えていた。
 ところが、近代化と個人主義が進み、日本は「地域」と「既存の神」を失った。形の上では「祭り」はあっても「精神と身体を開放する」という本来の役割は希薄になって久しい。
 今の日本人は、やたらと「神」と言いたがる割に、その「神様」を神社や教会には求めていない。今の時代の「神」はカリスマ経営者やアイドル、ミュージシャン、そして漫画やアニメやゲームの中の「キャラ」になったのだ。
 各自が自分の世界に閉じこもり、そこでは自分の好きなコンテンツが「宗教」みたいな存在になった。
 コミケはそんな「コンテンツの中の神」を下界(東京ビックサイト)に降臨させる祭りになったのだ。
 しかも「神はそれぞれ違う」のだから、八百万の神が共存する「千と千尋の神隠し」みたいな実に日本的な場になっているのが面白いし、実に平和な「祭典」だ。

 

「ええじゃないか」のコミケ

 普段は勝手に権利を侵せない漫画を「自分の好きに」できるコミケという「場」は、まるで江戸時代の苦しい暮らしの庶民が起こした、なしくずしの暴動「ええじゃないか」みたいな話だ。
 でもコミケは暴動にはならず、「好きなことをしてもいい場」として拡大を始め、キャラそのものになる行為を許し、そんな「自分そのもの」「秘めたる欲望」を見せても許される「精神開放の場」「癒やしの場」になった。

 そこでは普段隠している自分は捨てて「本当の自分」になれる。コスプレは「仮装」ではなく「本当の姿(理想の自分)」なのだ。
 そこで「自分」になれるからこそ、家庭や学校、職場なので「嘘の自分」を演じることができるという、ちょっとした「開放の儀」になっていったのだ。

 

「結婚」の代わりになるコミケ

 その昔、村上龍氏が「結婚というシステムは、SEXができない弱い男にも公平に抱ける女を与えて、若い男の不満が溜まらないようにするためにできた」みたいな事を書いていた。
 もしそれが本当なら、現代の恋愛に対応できない男たちの不満が暴徒化しないようにしているのは、今や「リアルの結婚相手」ではなく「コンテンツの中の嫁」で、コミケはそんな「俺の嫁のための祭り」にも見える。

 繁殖をあきらめたこの国の若者は「コンテンツの中の嫁」に癒され、コミケでは「本当の自分」になる。
 幼女を狙った犯罪などが、コミケのせいで増えるとは思えない。そこでは「いびつな自分」がいびつなままで許される「わずか数日の宴」があるだけだからだ。
 こういう状況に至ったのは、漫画、アニメ、ゲーム好きの人間の責任ではない。現代日本の「いびつな社会システム」は常に「いびつな精神」を生んでしまうのだ。
 そして、そのバランスを取るための「何か」が必要なのだ。
 日本の神社、仏閣から「無礼講の夜」が消えていく中、東京湾の埋立地に建つ「異様な神殿」の中で「魔界の扉」は開き、孤独な時代の魂を癒やす、つかの間の「サバト」が、この国を後期資本主義社会の生み出す「狂気」から救ってくれているのかもしれない。