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中島登、隊士としての足跡2

新選組の生き残りが描いた真実 第3回

新選組の維新後の生き残りといえば、斎藤一に永倉新八、島田魁らが有名だ。中島登は、知名度では歴戦の隊長や伍長に譲るが、同志を描いた『戦友姿絵』によって、確かな足跡を遺した。その生涯と、絵に秘められた想いに迫る。

近藤勇を奪い返すため護送隊を追跡するが……

 慶応4年(1868)、年初めの鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸にひきあげて甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)となった新選組に中島登(のぼり)も参加する。登の生家である八王子千人同心の初期の目的が妙な形で実現されたのである。しかし、甲府城はすでに新政府軍が占領していて、登たちは追いまくられ、ほうほうのていで江戸に逃げ戻った。が、江戸はすでに官軍がウヨウヨして身のおき所もない。近藤・土方は相談して下総流山に拠点を移した。

 しかし、ここもすぐ探知され官軍に包囲された。近藤勇は土方たちの脱出のための時間稼ぎか、あるいは敵を甘く見たのか、それとも疲れ果てていたのか官軍に自首してしまった。この時、登は土方から「近藤先生を奪い返せ」と命令される。大工に変装して護送隊を追跡したが失敗に終わった。というより組織立った官軍側の動きは、登個人の力ではどうにもならなかった。近藤は斬首(ざんしゅ)された。官軍の中に京都時代から近藤の顔をよく知っている、伊東甲子太郎一派の兵士がいて、シラを切る近藤の虚言を暴いたからである。

 正式な隊士となった登のことを、「色が白く目が細く、いかにも癇(かん)の強そうな人」と表現した目撃者がいるそうだ。諜者を命ぜられるくらいだからけっして頭はわるくないに違いない。この目撃者の印象によれば、クールで猜疑心が強く、それだけに観察力が鋭い人物のように思える。局長付として近藤が側においたのも、単に縁故者だというだけではなかろう。近藤自身が「隊内でどう見られているか。自分の味方はだれとだれで、反近藤派はだれとだれか」というような情報や風聞を、登から聞きこんでいたのに違いない。登はあくまでも諜報人なのである。

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童門 冬二

どうもん ふゆじ

どうもん・ふゆじ/1927年、東京都生まれ。東京都立大学事務長、東京都広報室長・企画調整局長・政策室長などを歴任し、1979年から作家活動に専念。著書に『韓非子に学ぶ ホンネで生きる知恵』(実業之日本社)、『小説 新撰組』『小説 上杉鷹山』(ともに集英社)、『新撰組 近藤勇』(学陽書房)など多数。


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