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中国名「卑弥呼」は果たして日本名では誰なのか?

ここまで分かった!「卑弥呼の正体」 第1回

古代中国の史書「魏志倭人伝」に記載されている「卑弥呼」という人物は、『古事記』、『日本書紀』に書かれている誰にあたるのか? 江戸時代から議論が続く古代史最大の謎である。その難問を、戦後考古学の最前線に立ち続けた大塚初重氏が、最新の研究データをもとに解明する――。

 

■江戸時代から議論が続く卑弥呼と邪馬台国の正体

 中国の西晋(せいしん)の学者、陳寿(ちんじゅ)が著した『三国志』は魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)三国の歴史を著述した有名な書である。この中の『魏志(ぎし)』30巻の中に「東夷伝(とういでん)」があり、約1900字ほどの倭人(わじん)・倭国についての記述がある。それが「倭人」条と呼ばれ、通称『魏志倭人伝』と呼んでいる。この倭人伝の中に「邪馬壹国(やまいこく)」の名があり「女王の都する所」だとしている。

 邪馬壹国は「耶馬臺国」の書き写し違いとされ、「邪馬臺(台)」国が正しい国名といわれている。この倭人伝の中に「倭国ではもともと男子が王であったが、内乱状態が長く続き解決しないので一女子を王として共立し、卑弥呼(ひみこ)と名づけた」と記されている。この表現から考えると「卑弥呼」という名は、特定個人名ではなく、倭女王卑弥呼の称号と考えるべきだろうと思う。そして後漢書・梁書(りょうじょ)など中国の文献史料も2世紀後半における卑弥呼の存在を伝えており、『魏志倭人伝』の記載から考えても、実在する倭国王(わのこくおう)であったと考えられる。卑弥呼が尊称だとしても、2世紀後半期に登場した倭国王は誰なのだろうか。江戸時代から多くの学者が考えてきたことなのであった。

 『魏志倭人伝』は、倭国王・卑弥呼がどのような女性であったのか詳細には伝えていない。しかしわずかではあるが性格が判断できるような表現がある。

 それによると、卑弥呼はかなり年齢が高い老婦人であり、しかもシャーマンとして宗教儀礼にかかわる祭主のような立場にあったものと思われる。また独身でもあり、一人の男弟が政務を補佐したり、食事の世話をするという。現代から想像できる、一般的な王位にある女性の生活とはかけ離れた暮らしぶりであったように推測される。

 『魏志倭人伝』に書いてある卑弥呼像から、具体的な倭国女王の姿を表現することは不可能である。過去に多くの芸術家が絵画、彫刻や映像作品などで卑弥呼像を描いてはいるが、それらはあくまで作者が想像した姿で、どこまで真実の姿と性格を再現できているのかはわからない。

 中国の文献によれば倭の女王に共立された年代が2世紀後半であり、「女王の都する所」が邪馬台国なのであった。女王の存在も西晋の王朝に仕えた著作郎(歴史編纂官)の陳寿が書いた公文書『魏志』東夷伝の記述であるから、かなり信頼度が高い記録といえる。

 いずれにしても卑弥呼とはどのような女性なのか具体的に描写するとすれば、『古事記』や『日本書紀』に登場する古代の女性天皇や、宮廷の祭礼にかかわる宗教的な性格を帶びた女性王族が、その実像に近い人物として考えられる。

 それは神功(じんぐう)皇后であり、さらには倭姫命(やまとひめのみこと)・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)なのであった。
 

写真を拡大 卑弥呼の正体をめぐる「3つの仮説」
 

《ここまで分かった!「卑弥呼の正体」 第2回へつづく》

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大塚 初重

おおつか はつしげ

1926年生まれ。明治大学名誉教授。登呂遺跡再整備検討委員会委員長。日本考古学協会委員長、日本学術会議会員、山梨県立考古博物館館長等を歴任。主な著書に『東国の古墳と大和政権』(吉川弘文館)、『考古学から見た日本人』(青春新書インテリジェンス)、五木寛之氏との対談『弱き者の生き方』(徳間文庫)ほか多数。


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