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日本人は「無宗教」なのか?

「世界一宗教にこだわりがない」と言われる日本。その真理を考察する―。

・日本人は本当に「無宗教」なのか

 日本人はなぜ宗教に関心がないのだろう?

 この疑問は、私が「禅」の勉強をするため、母国ドイツから日本へやってきたときに感じたものでした。日本人の多くが禅のことを深く知らず、宗教そのものにも無頓着だと愕然としたのです。

 正月には神社へ初詣に行き、結婚式を教会のチャペルであげ、葬式には僧侶にお経をあげてもらう……。なんとも不思議な宗教観を持った人々だと正直思いました。

 しかし、いまでは考えが変わりました。これは、拙著『日本人に「宗教」は要らない』にも書きましたが、日本人の宗教に対する接し方は、一神教の国々の人たちと大きく違うのです。

 日本にやってきて早や四半世紀、現在私は兵庫県の深い山中にある、曹洞宗・安泰寺(あんたいじ)の住職を務めています。この間に、師匠をはじめ、何人もの禅僧に出会い、一緒に修行し、語り合いました。

 日本人女性と結婚し、子供も生まれ、この地で家庭を持ちました。そして、多くの日本人と触れ合い、様々な体験をしてきました。そして、こう思うようになったのです。

「日本人の宗教観は、欧米人からすればおかしな感覚である。ただし、捉え方次第では、素晴らしいものなのではないか―」と。

 

・「善意」と「偽善」に敏感

 マザー・テレサが来日した際、次のようにコメントしたそうです。

「日本人は物質的に本当に豊かな国です。しかし、町を歩いて気がついたのは、日本の多くは、弱い人や貧しい人に無関心です」

 ノーベル平和賞の受賞者から、かなりシビアな発言です。日本人はどうしても、外国人の評価に左右されやすく、酷評されると凹みがちです。マザー・テレサの目に、どうして日本はそう映ってしまったのでしょうか。

 私の見ている日本は、そのような国ではありません。確かに、日本人は欧米人のように、自己PRとしてのボランティア活動をあまりしません。キリスト教のキャッチフレーズである「隣人愛」も、日本ではどこか大げさの響きを持つようになっています。日本人は、「善意」と「偽善」の違いには鋭いアンテナを持っているのです。

 だから、日本人が「精神的に貧しい」とは決して言えない、と私は思います。いや、信仰心を盾にしながら戦っている欧米人よりも、はるかに豊かな精神性を持っているのが日本人ではないでしょうか。

「宗教で喧嘩をしない」「善意の押し売りをしない」―そんな日本人こそ、私は好きです。日本人のそういう精神性は、ひょっとたら、控えめな仏教の慈悲の心の影響があってからこそ育ったのかもしれません。

・仏教は「宗教」? それとも「哲学」?

 欧米ではよく仏教は宗教ではなく、哲学ではないかと論じられます。果たして仏教は宗教なのか、それとも哲学なのか。かつて、私が母国のドイツで仏教について考えていたころは、その違いがまだわかっていませんでした。

 そもそも宗教とは何でしょうか。

 宗教とは、「特定の神様がいて、それを信じるか、信じないか」である。

 もしこれが、宗教の定義だとすると、「仏教は宗教ではない」と言えるかもしれません。禅宗の場合は、仏に手を合わせて祈ることより、自分が仏として生きる道を模索します。禅を基本とした、修行を大事にしているのです。仏教は、苦難に満ちた人生をどう生きるべきかの教えであり、人の生き方を問題としています。このような仏教のドグマは、欧米では哲学の領域です。

もちろん仏教徒は、釈尊を崇拝していますが、キリスト教のような神とは違います。釈尊は悟りを開いて「ブッタ」となりましたが、神ではありません。そして我々も、理屈の上では、「ブッタ」となることが可能だ、とするのが仏教です。

 それでは仏教は、宗教ではなく、哲学なのでしょうか。私は、断じて違う、と言いたい。

 仏教と西洋哲学は似ている部分がありますが、決定的な違いがあります。西洋哲学は、頭の中で考えるものです。人間の脳の中だけで、問題を解決しようとしています。ですから、寝ころんでいようが、街中を歩いていようが、頭の中で考えていれば、どのような姿勢でも、状況でも、関係ありません。

 対して仏教は、決して頭の中だけで、考えているわけではありません。坐禅を組む際は、姿勢を正すことに加え、細かな作法があります。

 坐禅をしていると、「私(自分)」は、頭の中(脳)だけでなく「体全体が私(自分)である」と感じます。そして私(自分)という意識もあいまいになっていきます。さらに、私(自分)の内側と外側の境界線までもあいまいになり、すべてがつながっている感覚になるのです。

・「実践」の大切さ

 曹洞宗の開祖である道元(どうげん)禅師は、「坐禅だけでなく、日常生活も大事である」と説かれました。日々の一挙手一投足に「仏性」が宿るとされたのです。料理や掃除の作法から、トイレの使い方まで、生きていく上での「実践」に重きを置いています。

 この日常生活の実践を、身を持って行っているのが、日本人です。道元禅師が大切にされた日々の生活(仕事や家事)を黙々とこなし、人とのつながりを大切にし、自然と共生する生き方を「無意識」に実践しているのです。

 日本人は自覚せずに、遥か昔から、宗教的な行いと心を持ち合わせているのではないでしょうか。ですから、「日本人は無宗教だ」と、外国人に言われても気にする必要はありません。

 さらに日本人は、他宗教にとても寛容です。寛容だからこそ、神道と仏教とキリスト教がけんか喧嘩せず、日本社会にうまく同居しているのです。

 反対に、宗教心に篤いと言われる、キリスト教やイスラム教の国々では、宗教間の争いが絶えません。たとえ現在、紛争のない地域でも、治安が良くありません。社会秩序が乱れているからこそ、人々の宗教への関心が高いのでしょう。

 日本のような安定した社会、争いごとの少ない社会は、世界の中でも珍しいのです。

<了>

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ネルケ 無方

ねるけ むほう

 禅僧。曹洞宗「安泰寺」堂頭(住職)。ベルリン自由大学日本学科・哲学科修士課程修了。 

1968年、ドイツ・ベルリンの牧師を祖父に持つ家庭に生まれる。

16歳で坐禅と出合い、1990年、京都大学への留学生として来日。

 兵庫県にある安泰寺に上山し、半年間修行生活に参加。1993年、出家得度。

 「ホームレス雲水」を経て、2002年より現職。国内外からの参禅者・雲水の指導にあたっている。

 著書に、『ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント33』(朝日新書)、『禅が教える「大人」になるための8つの修行』(祥伝社新書)、

 『迷いは悟りの第一歩』(新潮新書)、『日本人に「宗教」は要らない』(小社)などがある。 


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