ロシアのウクライナ侵攻で露呈。「地域研究」の由々しき問題性とは【中田考】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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ロシアのウクライナ侵攻で露呈。「地域研究」の由々しき問題性とは【中田考】

ロシアのウクライナ侵攻 その認識における「地域研究」の問題性【中田考:集中連載第1回】

【6.ウクライナの公定ナショナリズム】

 

 ウクライナも公定ナショナリズムによって、「国民的凝集性の情緒的源泉となるような集団的な感情」[10]を権力的に作り出しています。

 オレンジ革命によって大統領に就任したヴィクトル・ユシチェンコは2006年に内閣府直轄のウクライナ国家記憶研究所を創設し、ホロドモールをウクライナ人民に対するジェノサイドであるとの対外的なプロパガンダを行いました。政権がヤヌコビッチに替わるとウクライナ国家記憶研究所は国の機関から単なる研究機関に格下げになり、20104月に欧州評議会で、ホロドモールをジェノサイドと認識するのは「間違っているし不正である」と述べました。

 しかし、マイダーン革命が起きるとウクライナ国家記憶研究所は2014年に再び国家機関となり、20154月には「脱共産主義化」プログラムが開始され、「共産主義者とナチの全体主義体制」を双方とも批判し、それらの象徴のプロパガンダの禁止が法制化されました。これらの政策は、「歴史に対する開かれた議論を抑圧する可能性がある」として、国内や諸外国からも批判を浴びていました[11]

 ロシアのウクライナ侵攻以降、2021年にプーチンが発表した論文「ロシアとウクライナと一体性」がさまざまな批判に晒されています[12]。日本での報道もおしなべてこの論文に批判的ですが[13]、北大西洋条約機構(NATO)加盟を目指すゼレンスキー・ウクライナ大統領は国民との直接対話でのプーチン氏の発言後、嫌悪感をあらわにして「ひとつの民族ではない」と完全に否定しています[14]。しかし2010年に行われた意識調査ではロシア人とウクライナ人が単一の民族だと認識しているのは、ロシア側では47.1%、ウクライナ側では48.3%だったそうです[15]

 既に述べた通り、ウクライナ・ネーションなどというものはもともとは存在したものではありません。しかしソ連が消滅したことで、ウクライナが「独立」するためには、領域国民国家システムに組み込まれる必要があり、そのために、ウクライナという領土に主権を有する単一の等質な「ネーション」を有するというフィクションが求められました。その結果、ウクライナ国家記憶研究所のようなものが作られて、「ウクライナ人」というネーションが創り出されたわけです。

 

【7.主権国家とナショナリズム】

 

 「公定ナショナリズム」の問題点は、「ネーション」が「想像の共同体」として創り出され、それが存在しなかった過去に投影され、幻像となって人を惑わし、崇拝と忠誠を求める偶像となり戦争に駆り立て人を殺すことではありません。そうではなく、「公定ナショナリズム」の問題はそれが暴力的に強制されることです。

 近代国家とは主権国家です。主権とは、対内的に最高権力を意味しますが、対外的にはその独立性が領域国民国家システムによって承認されていることにあります。対内的に最高権力であるとは、国家の決定は全て法的決定であり、国家が国内の暴力行使権を独占して暴力によってその決定を国民に強制することを意味します[16]

 ナショナリズムとは標準的定義によると「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理」[17]です。そうであるならば、ウクライナ人とロシア人が「単一の民族」であるということは、ロシアとウクライナは一つの国家を構成しないといけないことになります。これがロシアのウクライナ侵攻問題の本質です。

 というのは、主権国家は、対内的に最高権力であるため、一つの国土の中に二つの民族が存在する時に、公的ナショナリズムは、ネーションを法的に決定し、それを暴力的に強制することになります。あるネーションが二つ以上の国家に分かれて住んでいる場合、それをめぐって紛争が生じがちです。民族問題は領域国民国家システムの「アキレス腱」であり、20世紀以降の戦争の殆どは二度にわたる世界大戦を含めて民族問題をめぐる国境紛争を引き金にして起こっています。

 

【8.ナショナリズムと領域国民国家システム】

 

 ネーションは近代国家のイデオロギーの中核であるため、国家間のネーションをめぐる議論は妥協を許さないものになりがちです。それは現代世界の国民国家の雛型の一つであるイギリスですら北アイルランド問題が未だにくすぶり続けていることからもわかります。それゆえ主権の尊重を旨とする領域国民国家システムにおいては、一国内の問題であれ、多国間の紛争であれ、国際社会に可能な合法的な解決は国連安保理決議に基づく制裁以外にあり得ません。

 そして国連安保理は常任理事国に拒否権を与えているため、事実上、常任理事国は国際法において国連による合法的制裁を免れており、「法の上に」立っています。

 特にアメリカとソ連とその継承国家ロシアの拒否権の発動によって国連が機能不全に陥ることはしばしばあります。その代表例がアメリカの拒否権により解決の道筋が見えないイスラエル・パレスチナ問題です。

 常任理事国の拒否権制度は、民主主義と主権平等の建前にも反しており、国連の明らかな構造的欠陥です。しかしその改正自体が安保理の拒否権により不可能になっているのが、構造的欠陥が構造的欠陥である所以です。そしてロシアのウクライナ侵攻問題の解決が困難な主要因は疑いなく当事国の一つが常任理事国の一つロシアであることです。

 

【9.ウクライナ人とロシア人】

 

 しかし解決が困難な理由が国連の構造的欠陥にあるとしても、問題自体は別にあります。「ウクライナ人」というネーションは19世紀後半にはすでに発明されていましたが、ウクライナがソ連から独立して公定ナショナリズムが公権力によって押し付けられて20年が経った2010年の時点でも、まだウクライナでは人口の約半数はウクライナ人とロシア人を一つの民族と考えていました。これは同じ旧ソ連の構成国であった中央アジアのムスリム国家とは全く違います。ソ連時代のカザフスタンやウズベキスタンでは、ロシア人、カザフ人、ウズベク人ではなく、ソ連「国民」であることが第一のアイデンティティであることはありました。しかしロシア人とカザフ人が同じ民族であるか、ロシア人とウズベク人が同じ民族であるか、などという問題は、そもそも設問自体が成り立ちません。

 といっても、ウクライナ人の半数がウクライナ人とロシア人が同じ民族であると考えていたとしても、それはウクライナの公定ナショナリズムによるネーション形成が不十分で、ロシアのネーションから十分に差別化できていなかった、ということではありません。

 むしろ問題は、単にウクライナ人とロシア人に相違があるかどうか、その相違が同じネーション内の多様性なのか、別のネーションなのか、といった概念上の問題ではなく、ウクライナ、ウクライナ・ネーション自体が内部に単なる相違ではすまない積年の敵対・対立を抱えていることにあります。ロシア正教史におけるカトリックと正教の千年における敵対、またポーランド、リトアニア、スウェーデン、ドイツによるウクライナ分割については近刊の拙著『中田考の宗教地政学から読み解く世界情勢のロシア正教史におけるロシアとウクライナの関係について論じた箇所で詳述しましたのでそちらを見て下さい。

(第2回へつづく)

 

【注】

[10] 「日本におけるナショナリズム」502頁。

[11] 青島陽子「ウクライナ戦争の歴史的位相」『スラブ・ユーラシア研究センター・研究員の仕事の前線(ウクライナ戦争特集)』(2022411日)7-10頁。

[12] Владимира Путина, «Об историческом единстве русских и украинцев», 2021/7/12(日本語翻訳:青山貞一『Ewave Tokyo』2021年8月7日:http://eritokyo.jp/independent/PutinRussiaandUkraineao422.htm)《プーチン論文「露とウクライナは一体」のご都合主義》『週刊エコノミストOnline』(2022年3月31日)。

《ロシアとウクライナは「カインとアベル」? 物議かもしたプーチン論文を分析する》The Asahi Shimbun Globe+, 2021.07.29.

[13] たとえば《プーチン大統領「ウクライナの主権 ロシアあってこそ」と主張》NHK News Web2021713日、《ロシアとウクライナは「カインとアベル」? 物議かもしたプーチン論文を分析する》The Asahi Shimbun Globe+, 2021.07.29.

[14] 「プーチン氏が論文 ロシアとウクライナの一体性を主張」『日本経済新聞』(2021713日)

[15] 《ロシアとウクライナは「カインとアベル」? 物議かもしたプーチン論文を分析する》The Asahi Shimbun Globe+(2021/7/29).

[16] 菅野『ナショナリズムは悪なのか』66-70頁。

[17] アーネスト・ゲルナーによる。菅野『ナショナリズムは悪なのか』40

 

文:中田考(イブン・ハルドゥーン大学客員教授)

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■目次■
序 タリバンの復活とアメリカの世紀の終焉
第I部:タリバン政権の復活
第1章 タリバンについて語る
第2章 アフガニスタンという国
第3章 アメリカ・タリバン和平合意
第4章 イスラーム共和国とは何だったのか
第5章 タリバンとの対話
第6章 タリバンとは何か
第7章 タリバンに対する誤解を超えて
第8章 タリバンの勝利の地政学的意味
第9章 タリバン暫定政権の成立
第10章 文明の再編とタリバン

第II部:タリバンの組織と政治思想
第1章 翻訳解説
第2章 「イスラーム首長国とその成功を収めた行政」(翻訳)

1.国制の法源
2.地方行政の指導理念
3.地方行政区分
4.村落行政
5.州自治
6.中央政府と州の関係
7.中央政府
8.最高指導部
9.最高指導者
10.副指導者
結語

第3章 「タリバン(イスラーム首長国)の思想の基礎」(翻訳)

1.タリバン運動の指導部とその創設者たちのイスラーム理解
2.思想、行状、政治、制度における西欧文明の生んだ退廃による思想と知性の汚染の不在
3.国際秩序、国連、その法令、決議等と称されるものに裁定を求めないこと
4.アッラーの宗教のみに忠誠を捧げ虚偽の徒との取引を拒絶すること
5.領主と世俗主義者の指導部からの追放と学者と宗教者の指導部によるその代替
6.民主主義を現代の無明の宗教とみなし信仰しないこと
7.一致団結と無明の民族主義の拒絶
8.純イスラーム的方法に基づくイスラームの実践
9.政治的制度的行動の方法において西洋への門戸の閉鎖
10.女性問題に関する聖法に則った見解
11.ジハードとその装備

跋 タリバンといかに対峙すべきか

解説 欧米諸国は、タリバンの何を誤解しているのか? 内藤正典

付録 アフガニスタンの和平交渉のための同志社イニシアティブ

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中田 考

なかた こう

イスラーム法学者

中田考(なかた・こう)
イスラーム法学者。1960年生まれ。同志社大学客員教授。一神教学際研究センター客員フェロー。83年イスラーム入信。ムスリム名ハサン。灘中学校、灘高等学校卒。早稲田大学政治経済学部中退。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。カイロ大学大学院哲学科博士課程修了(哲学博士)。クルアーン釈義免状取得、ハナフィー派法学修学免状取得、在サウジアラビア日本国大使館専門調査員、山口大学教育学部助教授、同志社大学神学部教授、日本ムスリム協会理事などを歴任。現在、都内要町のイベントバー「エデン」にて若者の人生相談や最新中東事情、さらには萌え系オタク文学などを講義し、20代の学生から迷える中高年層まで絶大なる支持を得ている。著書に『イスラームの論理』、『イスラーム 生と死と聖戦』、『帝国の復興と啓蒙の未来』、『増補新版 イスラーム法とは何か?』、みんなちがって、みんなダメ 身の程を知る劇薬人生論、『13歳からの世界制服』、『俺の妹がカリフなわけがない!』、『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』など多数。近著の、橋爪大三郎氏との共著『中国共産党帝国とウイグル』(集英社新書)がAmazon(中国エリア)売れ筋ランキング第1位(2021.9.20現在)である。

 

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