「学校の『当たり前』」を軽視する教育改革への違和感【西岡正樹】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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「学校の『当たり前』」を軽視する教育改革への違和感【西岡正樹】

■「通知表を廃止」したある公立小学校に対する違和感

 

 今年4月10日、茅ヶ崎市立香川小学校が「通知表を廃止」して3回目の春を迎えたという記事が、毎日新聞に掲載されていました。私の目に映った「廃止」という言葉には、違和感がべっとりと付いていました。ここでも「当たり前」が蔑ろにされている実態が見え隠れしています。また、この記事の大見出しにも、違和感がべっとりと付いていました。それは「人と比べなくていい」というものです。もともと「通知表は人と比べるためのものではない」からです。

 通知表を廃止するということは、「定期的に評価はしませんが、何らかの方法で子どもの育ちを日常的に伝えます」という宣言でもあります。この方法を確実に実施することになれば、教師の日常的な負担がより大きくなることが予想されますが、それだけのことをやる覚悟を香川小学校の教師たちは持っているのだろうか。他人事ながら心配になります。

 前述したように、「通知表」は「人と比べるための成績表」ではありません。ましてや、通知表はテストの点数がそのまま反映しているのではなく、教師によって表された「評定」や「所見」によって、子ども自身が自分の今を振り返り、次へ向かってより意欲的になるように作られるものなのです。

 その通知表が、相対的な評価であればA,B,Cや1,2,3、などの評定があり、相対的絶対評価であれば、△、○、◎などがあります。しかしそれは、目標到達度の違いを明確にしているにすぎません。また、所見は、教師が子ども一人ひとりを見取り、言葉によって子どもの現状を伝えるものです。その言葉は、子どもたちに大きな刺激を与え、やる気を出させるものでなければなりません。また、教師側から見れば、教師の見取りがきちんとできているかを試される場でもあるのです。

 このような二つの要素があるにも関わらず、「通知表」を廃止するという選択は、私には考えられません。子どもたちは、教師や親の思いにとても忠実です。親や教師が「通知表」に拘っていたら、子どもも拘るだろうし、親や教師が拘っていなければ、「通知表」に大きな拘りを持ちません。子どもたちが「通知表」に対してどのような思いを持っているのかは、教師や保護者次第なのです。評定ばかりに拘っている子どもがいるのであれば、教師や保護者が「通知表の存在意義」をきちんと伝えるべきです。

 教師は子どもの成長を記録する責任があります。そして、その記録を様々な形(学校独自)で子どもや保護者に伝えなければならないのです。それは「当たり前」のことです。

 そんな「学校の当たり前」を軽視する教育者の考えや世間の風潮こそ、今まさに学校現場を混乱に陥れているのではないでしょうか。

 

■「公共心」「他者意識」を育てるために必要なこと

 

 私が常々思っていることは、「自立(律)心」や「公共心」、「他者意識」を育てるために、まずやるべきことは、システムや方法を変える「改革」ではなくて「当たり前を取り戻す」ことだということです。

 「自ら考え」「自ら判断し」「自ら行動する」前にやらなければいけないことがある。それは、「人」や「もの」そして、「出来事」(対象)にきちんと向かい合い、対象を「ちゃんと見る、ちゃんと聴(聞)く、ちゃんと読む」ことなのです(子どもだけではなく、教師も保護者も同じです)。つまり、他者をしっかりと感じることなのです。

 (「ちゃんと」って何?という思いが出てくると思いますが)私の定義する「ちゃんと」というのは、「見たり、聴いたり、読んだりしたことを自分の身体の中に落とし込み、その中から言葉がでてくること」です。しかし、自分の身体に落とし込み、頭の中に浮かんできた言葉は、必ずしも口に出して表現できるものばかりではありません。思いとしてあるが、まだ外言として表現できないまま、内言として自分の中に残り続けるものもあります。繰り返しますが、私は、自ら考え、自ら判断し、自ら行動するためには、目の前にある「対象」を、自分の中に「ちゃんと」取り込む作業が、まず必要だと考えています。

 人と人が繋がるためにも同じことが言えます。「ちゃんと見る、ちゃんと聴く、ちゃんと読む」ことで対象(他者)を自分の中に取り込み、自分が共感できるところを見つけることで、お互いに繋がっていくのです。その行動が「あいまい」であればあるほど、行動として表れてくるものも、「あいまい」になってしまうことは、当然予想できます。

 担任していた子どもたちを見ていると、「ちゃんと」を理解するまで曖昧さばかりが目立ちました。ちゃんと見ているようで見ていないし、ちゃんと聴いているようで聴いていません。ましてや読むとなると、何をかいわんや、です。そのような状態で

 「先生の話を聞いて、どう思いますか」

と問いかけても、出てくる言葉はありません。言葉が口から出てきたとしても、自分の思いや考えが十分に表れていない単語か1、2文です。

 学校も含め、社会は、人として生きていくために忘れてはいけないこと、「当たり前」にやらなくてはいけないことを蔑ろにしているように思います。学校で起きている様々な課題の多くは、当事者意識(自分の事は自分でする)と関係性(人は一人では生きていけない)が失われていることによってもたらされているものであり、また、生きていくために必要なこと、当たり前にやらなくてはいけないことをやらなくなったことで拍車がかかっているのです。

 変わることを恐れてはいけないし、成長発展するためには変わるべきものは、変わらなければなりません。しかし、まず「変化ありき」=「改革」は違うのではないでしょうか。

 まずは、人が生きていくために大切にしなければならない「当たり前」を取り戻すことです。

 

文:西岡正樹

 

《プロフィール》

西岡正樹(にしおか・まさき)

小学校教諭歴40年の名物教師。
1976年立教大学卒、1977年玉川大学通信教育過程修了。1977年より2001年3月まで24年間、茅ヶ崎市内の小学校に教諭として勤務。退職後、2001年から世界バイク旅を始める。現在まで、世界65カ国約16万km走破。また、2022年3月まで国内滞在時、臨時教員として茅ヶ崎市内公立小学校に勤務する。
「旅を終えるといつも感じることは、自分がいかに逞しくないか、ということ。そして、いかに日常が大切か、ということだ。旅は教師としての自分も成長させていることを、実践を通して感じている」。
著書に『世界は僕の教室』(ノベル倶楽部)がある。

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西岡正樹

にしおか まさき

小学校教師

1976年立教大学卒、1977年玉川大学通信教育過程修了。1977年より2001年3月まで24年間、茅ヶ崎市内の小学校に教諭として勤務。退職後、2001年から世界バイク旅を始める。現在まで、世界65カ国約16万km走破。また、2022年3月まで国内滞在時、臨時教員として茅ヶ崎市内公立小学校に勤務する。
「旅を終えるといつも感じることは、自分がいかに逞しくないか、ということ。そして、いかに日常が大切か、ということだ。旅は教師としての自分も成長させていることを、実践を通して感じている」。
著書に『世界は僕の教室』(ノベル倶楽部)がある。

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