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「学校の『当たり前』」を軽視する教育改革への違和感【西岡正樹】

■「改革」は「当たり前」を蔑ろにする

 

 翻って、日本社会の状況を見てみると、学校に限らずいたるところで、「挨拶」や「返事」が疎まれ、失われている状況に気がつきます。そして、「日本人は日常的に人との繋がりを感じられる瞬間が極めて少ないのではないか」という思いに至りました。私は、長い教師生活(公立小学校40年)や世界中を旅した(バイクで世界16万キロを旅する)体験を通して「人と人が繋がることで、人は安心しより意欲的に学び、働くことができる」と思っているし、また、「さらに多くの人と繋がることで多くの刺激を受け、個の能力はさらに大きな力を発揮する」という強い思いを持っていますが、日本の現状は自分の思いとは逆の方向に進んでいるように思えてなりません。それと同時に

 「どうして人々(子どもたち)は繋がろうとしないのか」

 「どうして共に生きていくために必要な『当たり前』は、現実生活の中で失われようとしているのか」

という大きな課題が見えてきました。

 

 先日、NHKの番組「ヒューマンエイジ」を観ました。その中で、ずっと考えていた私の疑問に繋がるような事が語られていたのです。

 人(ホモ=サピエンス)は多くの人と繋がることで生き続けてきたし、多くの人と繋がることで発展してきた。我々ホモ=サピエンスが生き延びることができて、同時代に生きていたネアンデルタール人が絶滅したのは、コミュニケーション能力の違いだったという説がある。ネアンデルタール人は、ほぼ家族単位の小さな集団しか作れなかったが、ホモ=サピエンスは家族を超えたより大きな集団を作ることができた。その集団の大きさでできあがる「集団脳」の力に大きな差が生じたために、「集団脳」が小さいネアンデルタール人は様々な困難を克服することができず、生き抜くことができなかった、というのです。

 「一人の天才や一人の偉大な指導者がいたから、ホモ=サピエンスは生き延びたのではなく、大きな集団をつくることができたから生き延びられた」

という話を聞いた時、クラスの子どもたちの25個の顔が浮かんできました。

 「人は一人では生きていけないんだよ。だから・・・」

 私は、担任している子どもたちに、ことあるごとに伝えてきました。

 地域や家庭の教育力が弱くなっている今、「人と人が繋がる大切さ」を学べる場所は学校です。「一人ひとりが自分の事は自分でする力を養う」「多様な人々が集団を作り、その中で繋がりながらより広く深く学んでいく」のが学校だと、私は思っています。

 そのためには、人と人が共に生き、共に学ぶための『当たり前』をもっと意識しなければならないのですが、現実的には、その「当たり前」は蔑ろにされ、失われているのです。また、むやみやたらに使われる、現実認識を持たない「改革」という言葉によって、「当たり前」は、さらに失われようとしているように思えてなりません。

工藤勇一著『学校の「当たり前」をやめました。ーー生徒も教師も変わる!公立名門中学校の改革』。工藤氏は、千代田区立麹町中学校の校長から現在は横浜創英中学・高等学校の校長に。また、教育再生実行会議委員、経済産業省「EdTech」委員、文部科学省「教育長・校長プラットフォーム」発起人などの公職も務めている。

■工藤勇一氏がやめた「学校の当たり前」とは

 

 工藤勇一氏の『学校の「当たり前」をやめました。生徒も教師も変わる!公立名門中学校の改革』という本が話題になりました。「当たり前をやめた」という言葉が気になったので読んでみました。しかし、読み始めるや、私のアンテナにひっかかる言葉や文が度々出てくるので、なかなか読み進める事ができませんでした。本文に入る前の「はじめに」から私の中で多くの?マークが点滅し始めたのです。

  工藤氏の著書『学校の「当たり前」をやめた。』の「はじめに」に、次のような文章が書かれていました。

 

 

前略

 

今、日本の学校で行なわれている教育活動の多くは、学校が担うべき、「本来の目的」を見失っているように感じます。加えて、多くの教育関係者が気付いていないことに驚きます。

(中略)

学校は何のためにあるのかー

学校は子どもたちが「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ためにあると私は考えます。

そのためには、子どもたちには「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」すなわち「自律」する力を身につけさせていく必要があります。

社会がますます目まぐるしく変化する今だからこそ、私はこの「教育の原点」に立ち返らないといけないと考えています。

 

 

 まず、私は「社会の中でよりよく生きていけるようにする」という目的からひっかかりました。特に「よりよく生きる」の「よりよく」って何? イメージできません。一人ひとりに関わる「よりよく」は一人ひとり違いますから。だから、学校では「よりよく生きていけるように学ぶ」のではなく、「自分の事は自分でできるように学ぶ」のだ、と思っています。

 公立の小中学校は、一人ひとりが自分の興味関心を持った分野で、「自分らしく」生きていかれるように、その土台を築く場所です。確かに学校は、子どもたちの「生きていく力」を養う所です。そのために、「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する」=「自律する力」を身につけさせるのですが、それだけで「生きていく力」は養われていくのか、というと、そうではないでしょう。

 前述したように「(身体的にも、情緒的にも)人は一人では生きていけない」のです。だから、人は「生きていくために、どのようにしたら他者とつながり協働できるのか」を子どもの時から学び、体験を繰り返さなくてはなりません。ということは、学校は自立(律)心を育てるだけではなく、公共心も含め、「どのようにして自分と他者をうまく繋げいくのか」という力を身に付けなくてはならないのです。

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西岡正樹

にしおか まさき

小学校教師

1976年立教大学卒、1977年玉川大学通信教育過程修了。1977年より2001年3月まで24年間、茅ヶ崎市内の小学校に教諭として勤務。退職後、2001年から世界バイク旅を始める。現在まで、世界65カ国約16万km走破。また、2022年3月まで国内滞在時、臨時教員として茅ヶ崎市内公立小学校に勤務する。
「旅を終えるといつも感じることは、自分がいかに逞しくないか、ということ。そして、いかに日常が大切か、ということだ。旅は教師としての自分も成長させていることを、実践を通して感じている」。
著書に『世界は僕の教室』(ノベル倶楽部)がある。

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