福田啓二造船大佐の下で進められた戦艦大和の建造。巨大戦艦の外見とは裏腹にミリ、グラム単位で繊細かつ細心の注意を払って行なわれた。現代のような高性能機器によるオートメーション化された建造技術などあるはずもない時代に、これほどまでに完成度の高い軍艦を建造できたのは国運を背負った技術師の覚悟、動員された工員の愚直なまでの取り組み、つまり、日本人の特性ともいわれる緻密で精巧な職人気質やその勤勉さがなければ到底建造不可能だったに違いない。(原勝洋 編著『戦艦大和建造秘録 完全復刻改訂版』より引用)

◼️1940年(昭和15年)8月8日、煙幕の中から「大和」進水!

全力予行運転時の大和。1941(昭和16)年10月16日から予行運転に入り、同月20日には宿毛沖標柱間で全力予行運転を行った。荒れた海上を飛沫を上げながら驀進する極めて勇壮なシーンで正に「浮かべる城」。この時の運転成績は10/10出力(153,550馬力)で27.46ノット、10.5/10出力(165,360馬力)で27.73ノット。

 1940(昭和15)年8月6日、「第一号艦」では2日後に控えた進水式のためのテストが行われている。半完成の船体は、後部に4,500トンの重量が片寄っていた。

 後部トリム喫水は8メートル、艦首トリム約5メートル、このままだと船渠(せんきょ・船の建造、修理、係船、荷役作業などのために築造された設備)から出渠(しゅっきょ・船渠から船体を出す)出来ない。前部に海水を3,000トン注水してバランスを取った。
 艦が船渠内で浮上した時、水線長256メートルの前後部の喫水差は60ミリだった。計算通り浮上したのは、建造中の重量測定が厳密に行われたことを示している

 造船部の設計係の中に「其の他図面調製に係る諸係」があり、その重量係は①搭載重量月報、旬報、日報、②完成予想重量重心算出、③喫水およびデフレクション測定等を担当していた。そして艦側重量係は毎日、鋲1本をも計算していたのである。

 そこで計測した重量から推計し、今度は実際に浮き上がった時の喫水、排水量と比較してどのくらい不明重量が出るか検討していた。
「第一号艦」は、このような地道な努力の積重ねに支えられて完成に近付いていったのである。

 8月8日午前6時、「第一号艦」は船渠内に浮揚した。

 陛下の名代として久邇宮殿下が式台の中央に立った。午前8時20分、呉鎮守府司令長官日比野正治中将が、海軍大臣吉田善吾大将の代理として艦の前面に向かい命名書を朗読した。

「軍艦大和昭和12年11月4日工ヲ起シ今ヤ船体成ルヲ告ケココニ命名ノ式ヲ挙ケ進水セシメラル」

 砂川兼雄工廠長から造船部長庭田尚三造船少将へ進水命令が下った。進水担当主任の吉井造船大佐は、号笛指揮により進水作業を開始した。
「用意」「纜索張合せ」「曳き方始め」「推進用意よし」。

 工廠長は式台上の支綱を金斧で切断した。薬玉が割れ、7羽の鳩が圧搾空気で吹き上げられた五色の紙吹雪と共に舞い上がり、進水式は無事終了した。
「大和」は、秘密保持のため展張せられた煙幕の中を渠外に曳き出されたのである。

次のページ 昭和16年12月16日、「大和」は山本五十六大将の第一戦隊に編入