■新興尼子の勢力に押され大内家はあっけなく滅亡

大内氏を侵食した尼子経久『肖像集9』.栗原信充/画 国立国会図書館蔵

 享禄元年(1528)に大内義興が死去すると、嫡男の大内義隆が家督を継ぐ。義隆は本国の周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領し、大内氏の復権を図ろうとした。そのころ、北九州では自害した少弐政資の3男資元が、豊後の大友氏の支援を受けて少弐氏の再興を画策していた。資元による勢力回復の動きを掴んだ義隆は、自ら3万の軍勢を率いて筑前に渡海すると、太宰府に本陣を構えて少弐資元・冬尚父子が籠城する肥前勢福寺城を包囲させた。少弐勢は寡兵ながら防戦に努めていたため、義隆は少弐氏の被官龍造寺家兼の仲介で和睦し、少弐資元・冬尚父子は開城した。
 しかし、大内義隆は、少弐氏の領国を侵略し続けたばかりか、朝廷に奏請して大宰大弐に任ぜられたのである。少弐氏は、代々、九州の統括と外交を司っていた大宰府に仕えて大宰少弐の官職を世襲したため、少弐を名字としていたものである。その権威を乗り越えるため、義隆はあえて大宰少弐より上位の大宰大弐を望んだのである。結局、義隆は資元を圧迫し続け、天文5年(1536)、自害に追い込んだ。ちなみに、資元の子冬尚は、龍造寺家兼に庇護されたが、のち、家兼の跡を継いだ隆信に攻められて自害している。
 さて、こうして北九州を征圧した大内義隆にとって、残る最大の敵は、出雲の尼子経久と孫の晴久だった。
 天文9年、晴久は3万余の軍勢を率いて、大内氏に従う安芸の毛利元就を郡山城に攻めた。義隆は元就に援軍を送り、翌天文10年、尼子氏を徹底的に追い込んだ。勢いに乗じた義隆は、逆に尼子氏の本国である出雲へと侵攻していくのであるが、天文11年から1年をかけて行われた出雲遠征では、尼子氏の居城である富田城を包囲したものの、落とすことができない。そればかりか、攻めあぐねて撤退したところ、追撃され大敗を喫してしまったのである。
出雲遠征の失敗により、大内義隆の権威は失墜した。そして、天文20年、義隆の寵臣相良武任と対立した陶晴賢が謀反をおこして本拠の山口に侵入してくると、義隆は大寧寺で自害することになる。
 すでに豊後の大友宗麟と通じていた陶晴賢は、宗麟の弟である義長を大内氏の家督に迎えたが、もちろん、名目的な存在でしかない。弘治元年(1555)の厳島の戦いで、晴賢は毛利元就に敗れて自害した。そののち、大内義長も、周防・長門に侵攻してきた元就の命で自害させられ、ここに大内氏は滅亡したのである。

(次回に続く)