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尼子家の台頭を許してしまった西軍最強軍団・大内家

シリーズ「応仁の乱が起こした名家没落と下剋上」⑪

■実質的な西軍の総大将となった大内家

大内政弘に追放された11代将軍足利義澄/国立国会図書館

 応仁・文明の乱において、大内政弘は当初から西軍についていた。そして、総大将の山名宗全が文明5年(1473)に没し、宗全の跡を継いだ政豊が東軍と和睦してからは山名氏が戦線から離脱したため、政弘は実質的な西軍の総大将とみなされるようになっている。
 文明9年に応仁・文明の乱が終結し、大内政弘は本国の周防に帰国するが、翌年には、はやくも少弐政資を討つため北九州に出陣する。古くから大宰府の責任者として大宰少弐を相伝してきた少弐氏は、室町時代には筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の守護を兼ねていたが、大内氏によって筑前・豊前を奪われてしまう。そのため、応仁・文明の乱で大内政弘が上京している隙に、筑前・豊前を回復していたためである。九州に渡海した政弘は、政資を筑前から追放することに成功はするが、少弐氏を滅ぼすには至らなかった。
 大内政弘は明応4年に没し、跡を子の大内義興が継ぐ。このとき、家督相続の混乱をねらって、肥前・筑後に逼塞していた少弐政資が大内氏に対して兵を挙げた。そのため、義興は明応6年、2万余の軍勢で北九州に出陣する。そして、政資と子の高経を肥前で自害に追い込んだのである。これにより、北九州は義興によって征圧されることなった。
 そのころ幕府では、明応の政変により、10代将軍足利義材(義稙)が管領細川政元によって廃立され、京都から追放されていた。義興は、義材を周防に招くと、永正5年(1508)に、大軍を率いて上洛し、11代将軍となっていた足利義澄を近江に追放する。そして、義材を将軍に復職させると、その功によって管領代に任じられ、管領細川高国とともに将軍となった義材を支えたのである。
 こうして大内義興は在京して幕政に参与したが、長期にわたって本国を不在にしたことで、安芸の分郡守護であった武田元繁が自立を図るようになっていた。武田元繁は、大内義興に従って上洛していたが、国内の混乱を鎮めるために義興から一足先に帰国を命じられると、自らの勢力を拡大させるため、出雲の尼子経久と結んで義興に反旗を翻したのである。そのため、義興は10年間にわたる在京に終止符を打ち、周防に帰国することにした。
 永正15年、管領代を辞して周防へ戻った大内義興は、武田元繁と、武田元繁を支援する尼子経久との戦いに乗り出した。大永3年(1523)には尼子経久が大軍を率いて安芸に侵攻し、大内氏の安芸支配の拠点である鏡山城が落とされてしまう。これにより、それまで大内氏に従っていた国人らは、こぞって尼子氏に服属する結果となった。

(次回に続く)

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小和田泰経

おわだやすつね

静岡英和学院大学講師

1972年東京都生まれ。静岡英和学院大学講師。主な著書に『天空の城を行く』(平凡社)『戦国合戦史辞典 存亡を懸けた戦国864の戦い』『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』『戦国大名の山城を歩く』(ともに新世紀社)など多数。


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