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Sボートの強敵となった「海原の猟犬」ドッグ・ボート ~俊足自慢の小さな海の殺し屋~

第二次大戦高速魚雷艇列伝③

■Sボートの強敵となった「海原の猟犬」ドッグ・ボート

高速航行中のフェアマイルD型艇MGB606。本艇はMGBの艇種記号のごとく、フェアマイルD型ながら魚雷発射管を装備するMTBではなく、それを持たない高速砲艇であった。

 イギリス海軍は第一次大戦中、英仏海峡や北海などの沿岸海域での戦闘用に、かなり多くの隻数のCMB(Coastal Motor Boatの略。のちのMTBの元祖)を建造し運用していた。だが大戦の終結にともなって、海外領土大国のイギリスは戦後の厳しい軍縮財政下、アフリカや極東など世界中に散在する領土と、それらと本国とを結ぶシー・レーン、この両方の防衛に注力しなければならなかった。そのため、かような任務に適した巡洋艦クラスの艦船の建造と整備に予算のほとんどが費やされ、沿岸用の高速戦闘艇(魚雷艇を含む)は、実験的な運用が細々と継続されているだけだった。

 このように厳しい状況ではあったが、イギリス海軍も1935年頃になって、やっと再び高速魚雷艇の開発と生産に着手し、ヴォスパー社とブリティッシュ・パワー・ボート社が、MTB(Motor Torpedo Boatの略)と、MTBから魚雷兵装を撤去して銃砲火力を強化したMGB(Motor Gun Boatの略)の主要建造メーカーとなった。イギリス海軍がMTBとMGBを別にした理由は、イギリス艇がドイツのSボートに比べて小さめだったことに起因していたが、この小さいという点が、のちの第二次大戦において生じたSボートとの戦いにおいて、大きな弱点として浮上することになる。

 第二次大戦の緒戦の時点でのSボートとの戦いで、MTBやMGBは苦戦を強いられた。その理由はいくつもあったが、もっとも重要な点が艇のサイズと艇体の形状だった。波荒い北海での戦前の運用実績から、Sボートの艇長は30mを超えており、丸底艇体を備えていた。一方、当時のイギリス海軍の主力だったヴォスパー社の1型と2型は、ともに艇長が20mほどで、ハード・チャイン型滑走艇体を備えていた。

 艇長を短く抑えたこのハード・チャイン型滑走艇体は、丸底艇体に比べてより小さい出力の主機で高速が出せる。反面、高速航行時の艇首上げが大きく、荒れた海では波頭に跳ね上げられて航行が難しくなるという弱点があった。

 ところが、Sボートは波に切り込んで行ける長い艇長と丸底艇体なのに加えて、高速航行に有利なハード・チャイン型滑走艇体のイギリス艇を凌駕した高出力の主機を備えたため、イギリス艇よりも航行性能に勝っていた。そのうえ、Sボートは大きいので20mm機関砲を装備していたが、小さいイギリス艇は50口径と30口径の機関銃しか装備しておらず、火力でSボートにかなわなかった。

 主機もまた問題で、ドイツ海軍は第一次大戦での戦訓に基づき、被弾時に爆発的な火災を起こすガソリンの危険性を排除すべく、Sボートには燃えにくいディーゼル油を使うディーゼル・エンジンを搭載した。だがイギリス艇は航空機用エンジンを改修したガソリン・エンジンを搭載していたせいで、火災に脆弱だった。

 そこでこの劣勢を挽回すべく、イギリス海軍も既存のMTBやMGBに20mm機関砲の後載せを図った。しかし艇の基礎を成す艇体の形状や主機に手を付けるわけにはいかなかった。これに対し、Sボートも37mmや40mmの機関砲に換装して火力を強化した。

 一方でイギリス海軍は、Sボートが有利な理由である「適度に艇体が大きい」ことに気づいており、ヴォスパー社やブリティッシュ・パワー・ボート社の艇よりも大きく、Sボートと同規模のフェアマイル社のD型艇を1942年に就役させた。同艇はMTB型とMGB型の両方が建造され、速力は30ノットとやや遅かったが、6ポンド砲2門、連装20mm機関砲2基4門、連装50口径機関銃2基4挺、連装30口径機関銃2基4挺に魚雷4発などという、それまでのイギリス艇に比べれば超重武装(同艇の武装にはバラエティーが多い)で、高速を利して逃走されない限りSボートを圧倒できた。

 そして大戦中期以降は、フェアマイルD型の「D」にちなんでドッグ・ボートの愛称で呼ばれた同艇が、Sボートとの死闘の主役的存在となって行くのであった。

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白石 光

しらいし ひかる

戦史研究家。1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。


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