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エル・アラメイン戦の間奏曲、アラム・ハルファの戦い

エルアラメイン会戦③

■エル・アラメインを巡る一連の戦いの間奏曲

写真を拡大 M3ジェネラル・グラント中戦車の車長ハッチから半身を乗り出した「モンティ」ことバーナード・モントゴメリー中将。彼のもうひとつの愛称は「砂漠の鷹」だが、これは日本ではあまり知られていない。ちなみに、砂漠における食物連鎖において「砂漠の鷹」は「砂漠のキツネ」(ロンメルの愛称)を狩ることから、この愛称が付けられたという。

 イギリス軍は大きく後退したが、とりあえずナイル・デルタ地方を守り通すことができた。むろん自軍の損害も大きかったものの、兵站により大きな問題を内包する枢軸軍に対して、かなりの損害を与えることに成功した。だが、チャーチルはオーキンレックのこの戦績を評価せず解任。新しい中東方面軍総司令官にハロルド・アレキサンダー大将を指名した。また、第8軍司令官には、それまで第13軍団長だったウィリアム・ゴット中将が指名されたが、着任以前に航空機事故で死亡し、「モンティ」ことバーナード・モントゴメリー中将が改めて指名された。

 1942年8月12日、カイロに着任したモントゴメリーは、前任者のオーキンレックが策定していた緊急撤退案と第2防禦線構築案を破棄。エル・アラメイン周辺で枢軸軍と対峙している麾下の全部隊に向けて、以降の後退を許可しない旨の訓令を発した。一方で彼は、同地一帯に展開した自軍部隊の陣地の徹底的な強化に着手。イギリス軍は枢軸軍よりも潤沢な補給に支えられていることから、機動戦を得意とするドイツ軍を陣地戦に引きずり込み、できるだけ消耗させたうえで、頃合を見計らって機甲部隊による逆襲をかけ、叩き潰すという戦術を考えていたからだ。

 片や枢軸軍も、第1次エル・アラメイン戦で蒙った損害の補充に尽力し、再び打って出るだけの戦力を回復していた。そして8月30日深夜、ルエイサット高地とカッターラ低地の間隙にある平地を通って、アフリカ装甲軍の攻勢が再び開始された。そこから、エル・アラメインの東にあるアラム・ハルファ高地の東斜面を経るルートを進み、エル・アラメイン周辺に集まったイギリス軍部隊の背後を遮断しようというのだ。アラム・ハルファの戦いの始まりである。

 しかし、枢軸軍はモントゴメリーが予想していた通りの経路で攻勢を仕掛けてきたため、イギリス軍が敷設した約18000個にもおよぶ地雷原に入り込んでその「行き足」を削がれたうえ、イギリス軍砲兵の阻止砲撃と同空軍の阻止爆撃をまともにくらった。そして、第21装甲師団長グスタフ・フォン・ビスマルク少将は搭乗した指揮車に迫撃砲弾が命中し戦死。ドイツ・アフリカ軍団長ヴァルター・ネーリング大将もまた、同じく指揮車が爆撃を受けて重傷を負ってしまった。

 こうして、枢軸軍の攻勢の奇襲効果は完全に失われた。しかも攻勢開始直後の時点で複数の上級指揮官を失うという戦闘の推移に重大な影響を及ぼしかねない事態となり、さらに燃料不足の問題が大きく重なった。それでもロンメルは歩兵部隊などを巧みに用いて攻勢を継続したが、新たにドイツ・アフリカ軍団長に就任したグスタフ・フォン・フェルスト大将は、イギリス軍の頑強な抵抗と極端な燃料不足に鑑み、ロンメルに対して、攻勢を中止し戦線の整理をおこなってはどうかという意見を具申。補給が届かないこともあって、ロンメルはついに9月1日朝、全軍に対して作戦の中止と、攻撃発起線までの後退を発令した。

 こうして、エル・アラメインを巡る一連の戦いの間奏曲となったアラム・ハルファの戦いはイギリス軍の守り勝ちとなり、着任後初めての「砂漠のキツネ」との手合わせで、早々と白星を上げたモントゴメリーの名声は、いやがうえにも高まった。

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白石 光

しらいし ひかる

戦史研究家。1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。


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