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西方戦線起死回生を狙ったヒトラー最後の賭け

行き詰まりつつある攻勢、パイパー戦闘団ついに撤退す!

■行き詰まりつつある攻勢、パイパー戦闘団ついに撤退す!

写真を拡大 ヨアヒム・パイパー。写真はSS少佐時代のもの。「ヨッヘン」の愛称で親しまれた。武装SSは、彼をはじめ勇名を轟かせた軍人を多数輩出している。

 攻勢に参加したドイツ全軍の突進の先鋒を担ったパイパーには、上層部から「側面や後ろの残敵掃討は後続の部隊に任せ、可能な限りの速さでひたすら先に進め」との命令が与えられており、彼はそれを忠実にはたしていた。

 そしてこの先を急ぐ突進の途中、パイパー戦闘団はトロアポンに架かる進撃上重要な橋の奪取を試みた。だが橋を守るアメリカ軍戦闘工兵の小部隊も重要性を認識しており、パイパーの目の前で橋は爆破されてしまった。

「くそ、厄介なことになった。すぐに偵察隊を出して戦車が渡れそうな橋を探せ!」

 こうして、パイパーは新たな橋を探し出してそれを確保するのに手間取らされ、しかも晴れ間になると、連合軍のヤーボ(本連載前回記事参照)の攻撃を受けるはめになった。

「偽装を厳重にしろ。空から叩かれて犬死なんかしてはならんぞ。一歩でも前に進むんだ!」

 だが、燃料や弾薬など補給品の欠乏と、増援や後続の味方部隊の未着が、パイパー戦闘団をもっとも苦しめた要因だった。燃料がふんだんにあれば好きな速度で進撃でき、弾薬が豊富にあれば出現する敵を片っ端から粉砕できるからだ。

 もちろん上層部も、もっとも西まで進んだパイパー戦闘団への補給を、陸路のみならず空輸も含めて何度も試みたが、1個戦闘団の必要量を満たすにはまるで足りなかった。

 一方、増援として向かった部隊も、ラ・グレーズに構築された針ネズミの防御陣の中で半包囲状態にあるパイパー戦闘団まで、突破口を切り開くことができない。

「これ以上は無理だ。持ちこたえられない。みんな、よくやった。もう脱出するぞ!」

 燃料、弾薬、食料、医薬品などすべての補給物資が届かない厳しい状況下、歴戦の猛者パイパーも、任務を断念する決断を下さざるを得なかった。

 12月24日クリスマス・イブ。

 パイパー戦闘団の残存将兵約800名は、ケーニクスティーガー以下すべての車両や重装備を放棄し、ラ・グレーズ近辺の防御陣から徒歩による退却を実施。伝説の魔の狩人のごとく敵の半包囲陣の間隙をすり抜け、大規模な敵部隊に捕捉されることなく、彼らはSS第1装甲師団の主戦線にかろうじて帰還した。翌25日のことだった。

 この突進に参加したSS第501重戦車大隊は、強力ながら「大飯喰らい」のケーニクスティーガーを多数失ってしまった。しかし故障などでパイパー戦闘団の行軍から脱落したものなど15両前後の回収に成功し、それらをもってメビウス戦闘団を編成。「ヴァハト・アム・ライン」作戦が終了するまで戦い続けた。わずか15両とはいえ、「最強の虎」ケーニクスティーガーは局地的には猛威をふるった。

 アメリカ軍の主力であるM4シャーマン中戦車なぞ、ケーニクスティーガーの71口径8.8 cm戦車砲KwK43をもってすれば、2000m以上の距離からでも容易に撃破可能だった。

 一方、パイパーは戦闘団を率いて見事な戦いぶりを示したことから、1945年1月11日に柏葉剣付騎士鉄十字章を授与された。

 ところがパイパー戦闘団は、彼自身があずかり知らないところで重大な戦争犯罪を犯していた。一部の将兵がパニックを起こし、集められていたアメリカ軍捕虜多数を殺害してしまったのだ。

 現場となった地名を冠せられて「マルメディの虐殺」と称されるこの事件により、戦後、パイパーは戦犯とみなされて死刑判決を受けた。だがその後に減刑され、1956年12月31日にはれて釈放となっている。出所後は西ドイツで自動車会社などに勤務したのち、身分を隠してフランスに移住。翻訳業を営んでいたが、1976年7月13日、何者かに暗殺された。

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白石 光

しらいし ひかる

戦史研究家。1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。


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